こないだ、運び屋とペンタゴンペーパーズを観た。かつてスピルバーグとイーストウッドのことどんなこと書いていたっけ、と調べる。も、大量にあるので抜粋。これでもまだ半分ぐらいからの抜粋。バイデン・アメリカどんなものになるのかな。バイデンアメリカってのもいけないかな。ペンタゴンペーパーズで、権力者がイコール国家であってはいけない、民衆が国家でなければ、とあったし。至極当然のことだけれど、ほとんどはそうではないから、せめてアメリカにはそれを願う。理想だけど、ホモサピエンス全史のヒトも虚構がヒトをつくるみたいなこと言ってるしイメージは大事なこと(しかしこれホントか?犬だってこっちが知らないだけで神託つくっているのかもしれないしビーバーのダムだって欲求によってではなく儀式的なものが彼らにはあるのかもしれない)。ミメーシスは未明に死すぐらいに死をもたらすやもしれぬが、ワクワクを生みもする。
◎スピルバーグ
☆”いばしょ”と”いきがい”:ホーム
☆”過去の憧憬”と”未来への期待”
☆ホームの揺れ(Jフォードから継承)
☆子供のような主人公:希望への眼差し(Fキャプラから継承)
☆個と国は区別されるもの。個人の尊厳。
☆国家的な結びつきを超えた家族的な結びつきを希求する。目のなかに見える光にはそれが表わされているのだ。
☆記憶というイマージュは、ないようで在るもの。いつも側に届けてくれる。
☆ジョン・フォードの符号: 過去への憧憬は確かにかつてあったものに対する憧憬であると同時に、そこにあるべきものへの願いとして表れた。しかしながら、それはまだ、はっきりとはしないあやふやな何かである。彼らの感じている何かは、同じ方向に向かう人々を通して、明瞭化する。それは人々の尽力や思いやりであったり、主人公が彼らのために尽くそうとする思いである。そしてそこでは、"生きる"彼らの姿が、印象づけられる。登場人物たちは互いの声を聞き、相手を思う姿を見る。そうした世界が続くことを、彼らは欲する。それがいま知る彼ら自身の姿なのである。彼らはそこで、憧憬を追いかけながらも、実は新天地へと向かう自分の姿を知る(= see)。“ホーム”はそこで、より大きな拡がりとなる。希求がはっきりとするときに“ホーム”は、彼らの結びつきが確かに成される空間として結実する。 そして大きな結びつきを見る(= see)ことを通して、われわれもまたフォードの“ホーム”へといざなわれるのである。
☆フランク・キャプラの符号: 子供のような主人公は、家族的な結びつきを司る人物、すなわちリーダーへの成長を託される。成長の過程、主人公は、エドワード・アーノルドやライオネル・バリモア演じる人物が起こす出来事に、翻弄される。彼は自分を見失いかける。しかし、主人公は同じ方向性で出会う人々に助けられる。人々は、主人公と同じような民衆である。彼らとの出会いを通して、主人公はかつての自分を取り戻すのである。キャプラの思いがけない出来事は、主人公を覚醒させる。未来にばかり目を向けていた主人公は、彼と同じような民衆に助けられる。そこで彼は思っていた理想の本当の意味を知るのである。その方向に、主人公の意味や感覚が統合される。 キャプラの描く"ホーム"で大事なことは、政治の腐敗が裁かれることでも新しい理想が芽生えることでもない。民衆が猜疑心を無くし一丸となって、互いを助け合うことが重要なのである。キャプラの"ホーム"は、ただそれを表す。成長は、主人公がそのことを知ることによって遂げられる。そこで主人公が最初の方に見たあやふやな理想が、互いが垣根をとって一つの形になることとして結実する。主人公が知る(=see)理想を通して、われわれも"ホーム"の姿を見る(= see)のである。
☆初期作品:『激突!』と『ジョーズ』
*追いかけてくる。
*本能めいたもの、或いは、それすらも分かり得ない未知のもの。
*家族社会の崩壊の時代における家族の再編というより、主人公自身が非日常と出会い、それまでの価値観が壊され変化する。『激突!』と『ジョーズ』の間に創られ、現在制作している作品群にも通じる(家族社会ではなく)家族的社会を追求したシュガーランドエクスプレスにおいてもそのことは表わされているし、その後のスピルバーグにもずっと表わされているものである。
☆ “イーストウッド”はアメリカのひとつの文化である。マルパソはそうした“イーストウッド”というイメージを育んできたのである。一方、アンブリンはスピルバーグが彼の映画作品で表わすような理念を実現し、様々な映画人が育てている。しかし、今世紀になると、彼の理念の実現を清々しく実現するプロダクションになっている。“スピルバーグ”という理念を育んでいる。
キャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルとともにアンブリンを1982年に設立。ふたりは『E.T.』以後のスピルバーグのほぼ全ての作品に製作で参加している。アンブリンはスピルバーグの作品だけを製作するのではなく、クリス・コロンバスやロバート・ゼメキス、ジョー・ダンテの才能を開花させる。1998年の『プライベート・ライアン』以降はほぼスピルバーグの作品の製作に集中してくる。
☆『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』: スピルバーグ的な過去への憧憬と未来への眼差しはしっかり表わされ、キャプラにはいかなるイズムも糞食らえ的な表現あったけれど、資本主義者のアメリカンも社会主義者のソ連人も彼らのイズムは否定される。見て考えるのではなく、愛と冒険で思考せよ触覚せよ、というところを彼ら異次元人たちとジョーンズ夫妻のウェディングは教えてくれる。
☆ジョーズなんかもそうだけれど、大衆心理との関係性、マスというイシュー、スピルバーグにはある。それは初期のだけではなく、ブリッジオブスパイやリンカーンにも色濃くまだまだ表わされているよね。キャプラからの影響を感じてしまう。
☆リンカーン
*お人好しなフツー人の内に潜在する、構想力と想像力がスピルバーグに表わされる。トムクルーズであるがゆえ『宇宙戦争』の主人公は見た目はフツー人には見えずにヒーローであるが、初盤のダメンズぶりにより、彼のフツーにどこにでもいるアメリカンメ〜ンぶりが表わされる。『ブリッジ・オブ・スパイ』の弁護士は優秀さを我々に表わすが、トムハンクスのイメージによりフツーな善人が表層的に表わされてくる。『リンカーン』におけるデイ=ルイスもまた、いつもの彼が表わす強烈さは控えさせフツー人ぶりを発揮する。彼らはプロセスにおいて、彼らに潜在する構想力と想像力を露わとしていく。そしてそれがアメリカンの普遍性であると、スピルバーグは語らしおん。普通である主人公たちをはじめアメリカ人たちは、そのサヴァイヴァーたちが生きるアメリカという場所で、免疫力を育み、共生力を持っていくのである。
アメリカンの様々な力は平等のためにワ〜クする。アメリカ人は“自由”を謳歌する。『リンカーン』と『宇宙戦争』において息子たちが戦場に飛び込むのは、愛国心というのもあるのかもしれないが(スピルバーグが子供のころ創った8mm映画には戦争映画も多くあり、またその後のテクストにおいてもパトリオット的な部分が多分にみられる)、黙っていられないことは彼ら自身の平等の権利に対する意思が働くのである。スピルバーグが制作に入る前に観る4作品のひとつが『七人の侍』と言われるが、そこにも“平等”という権利のために戦うスピルバーグの姿勢がみてとれる。
☆地下からの再び、この地への上昇、人と人との結びつきというHOMEへと戻る。 『宇宙戦争』においても『魔宮の伝説』においても、スピルバーグは地下組織を嫌っている。ハーランやモラ・ラムといった地下に潜るヒトは、人と人との結びつきにおいて憎悪を生み出している。そうしたメモリー(イマージュ)を内在させている。『ジョーズ』のクイントもまたそうであろうし、『シンドラーのリスト』のアーモン・ゲートもまたそうであろう。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』と『ミュンヘン』においてもまた、主人公は地下に潜っている。主人公はアイデンティティを自らの意思によって捨て、悪とは何か善とは何かの生の姿を学びゆく。彼らはイメージに生き、そしてこれらの作品では、イマージュとは何かもまた考えていくのである。
◎イーストウッド
☆鼓舞されるナショナリズムではなく、ゴーストは今此処に在る事実を表わす。
☆イーストウッドは常にイストワールを表わす。その物語=歴史は、その人が描き出されるものであり、真実を目の当たりにする対象として触覚される。思い出が思い出と重なり合うとき見えてくる、生というもの。イーストウッドは彼のイストワールに、思い出(記憶)とは大切なものと、多くの映画作品で言われていることを表わしながらも、それと同時に、ライフ イズ ミステリアスを常に描き続けている。
☆ときにはオカルト的に表わされたりするが、イーストウッドには常に執着心めいたものが露骨に表わされる。それも、それはベットリとしたものである。因果応報にある遺恨が表わされている。西部劇なのに、女々しい遺恨が表わされてしまう。ジョン・フォードが表わすジョン・ウェインは小さいことに目をくれず、さっぱりしていた。それがイーストウッドにはない。スパゲッティの喰いすぎか。
☆ジョンウェインのような不器用で無作法、女性には紳士的である寡黙な”頼れる男”はもういない。泣き言をいってナショナリズムを煽る時代か。思えば、イーストウッドは寡黙であるが、彼のテクストはヒステリックな叫びが常に表わされている。ベトネム以降のアメリカの本音か。『グラン・トリノ』において、モン族の“隣人”は大切にするが、街中のパンクは根こそぎぶっ殺す勢いであった。ポリティカルコレクトネスの抑制に風見鶏しない姿勢は危険かもしれないが、本音はずっとブレずに在る。いいわるいではなく、デンジャラスマインドの時代はずっと在る。C'mon Make my day。
☆初期作品:『恐怖のメロディ』と『荒野のストレンジャー』
*追いかけてくる。
*情念めいたもの
*スピルバーグと同様に世の中はおかしくなっていると明快に言っているも、スピルバーグが勧善懲悪を明快に言ってのけるほどには悪者を悪だと言ってのけない。むしろ、人間の関係性における“つながりという不可解性”をイーストウッドは主眼としている。 それは彼のその後のテクスト群においても同じように表わされている。
☆“イーストウッド”はアメリカのひとつの文化である。マルパソはそうした“イーストウッド”というイメージを育んできたのである。一方、アンブリンはスピルバーグが彼の映画作品で表わすような理念を実現し、様々な映画人が育てている。しかし、今世紀になると、彼の理念の実現を清々しく実現するプロダクションになっている。“スピルバーグ”という理念を育んでいる。
スパゲッティウェスタンをヒットさせイタリアからアメリカに帰還したイーストウッドはマルパソを設立する。マルパソ第1作の西部劇『奴らを高く吊るせ!』に続く2作目のアクション刑事もの『マンハッタン無宿』では既にドン・シーゲルを迎えている。『ダーティハリー』もまたマルパソの製作であり、イーストウッドはマルパソ設立してから主演をやっているだけではなく製作に常に関わっている。撮影のブルース・サーティースは『ダーティハリー』と同年製作の、シーゲル監督作品『白い肌の異常な夜』とイーストウッドの最初の監督作品『恐怖のメロディ』にも参加している。彼は85年までのイーストウッドの監督作品全てに撮影監督として参加しているし、イーストウッドが主演するシーゲルの作品にもほぼ参加している。イーストウッドやシーゲルが監督していなくても、イーストウッドが主演する作品はほとんどがマルパソの製作である。
☆イーストウッドがお茶の間の人気者になる西部劇『ローハイド』は7年ぐらい続いたらしいけれど、『ガンスモーク』は20年。アイクの時代からベトナムやウォーターゲートを通過していったアメリカでの20年、ジョン・ウェインのお墨付きも頂いている長寿西部劇である。『ローハイド』がはじまった57年は、西部劇ドラマが30本もあったとか。アタマのなか皆、フロンティアであったにちがいない。
ドン・シーゲルとはじめて組んだ『マンハッタン無宿』 で、イーストウッドはアリゾナからマンハッタンにやってきたテンガロンハットかぶったワイルド刑事を演じた。脚本のハーマン・ミラーはその後、テレビドラマ『警部マクロード』にクリエイターとしてクレディットされる。ミラーはイーストウッド演じたカウボーイ刑事のキャラをその後、警部マクロードに転用することとなるのだ。ワイルドだねぇ〜 。マクロードを演じるデニス・ウィーバーはその後、スピルバーグが注目されることとなる『激突!』 で、ワイルドではないフツーのアメリカン セールスマンで主演。フツー人である主人公は非日常のなかでだんだんとワイルドになっていく、そんな『激突!』である。
『警部マクロード』において、主人公はイーストウッドと考えられたが、『ダーティハリー』出演のため出演ならず。もしイーストウッドがマクロード演じていたら、スピルバーグ演出イーストウッド主演の『激突!』生まれていたのかな。
☆『スペース・カウボーイ』において、月に行きたくて行きたくても〜たまらないって男たちの鎮魂歌が表わされる。死ねばいいってもんじゃないよ、それがカッコいいんかい?とまで思わせる美学が『グラン・トリノ』にも『ミリオンダラー・ベイビー』にも、この作品にもその他のにもありであり、それに対しては私は、死ねば御涙頂戴かい!ってかなりネガティヴに怒り指し示すのであるが、ラストのトミー・リー・ジョーンズのシールドに映るアース、成就として終わるのではなく、イーストウッドらしい波打つものがある。それが彼の本当に言いたいところの美学であるのかもしれない、と思ってしまった。
☆『バード』がバード イズ ミステリー的な感じで描かれていたように『J・エドガー』、エドガー イズ ミステリアス、そうした感覚で捉えられ、おもしろかった。ホントは嫌なヤツなのかもしれないが、とっても人間味ある感じがどんどんと出てきて、ラストではお茶目なヤツにも思えてくるエドガーであるが、それもディカプリオであるがゆえに表現することできたのだと思う。そして、一作のみで彼の魅力を引き出すのってイーストウッドは凄いと思った。スコセッシは何本もやってるのに、一辺倒のディカプリオしか描ききれていないのに、イーストウッドこそがミステリアスに凄い。また、人間のマイナスな部分だけが描かれているのではなく、イーストウッドらしい愛の姿や、彼がいつも表わすようなチーム間の絆の固さ(或いは、緩さも)が出ていて好感が持てる。
☆J・エドガー
*『J・エドガー』において、エドガーはライターに彼の半生を語る。己のみのイストワールを綴っている。彼にとっては真実であること。イストワールに綴られるものは、コンプレックスにより「男」として生きることが出来なかったというより、ひとりの「人」としてその真実を生きたことなのである。我々は彼を通して孤独を見るのではなく、ヒューマンとしての彼を見る。エドガーは盗聴をすることにより彼自身の利権を保守したフィクサーというより、アメリカという症状を引き受けた「アメリカ人」だと言える。それは『アメリカン・スナイパー』や『グラン・トリノ』の主人公や、イーストウッドの西部劇の男たち、そして『ミスティック・リバー』の3人の友人たちにも同様に表わされる。
ところで、まんざら嘘でもないようでホントでもないようなその人物にとっての真実が綴られることは『許されざる者』のイングリッシュ・ボブにも表わされるが、銃の腕前は凄いけどそれを取り上げられてしまいズタズタにされる彼には、イーストウッドを隔世遺伝的に育てた『用心棒』(と勿論、直系の『荒野の用心棒』もである)が反映される。ハックマン保安官がハリスをズタボロにするのは、“自由”或いは“平等と不可分のもの”というアメリカ市民が持つ権利を剥奪しかねない君主制イギリスに対する報復にも、いま思えば、そう感じたりもする。そうでありながらも、保安官にはアメリカンが無意識にも(或いはパーフェクトに意識的に)もっている処女性や貴婦人性を崇め娼婦性を蔑視するセンスも在る。そしてそれは、エドガーがフツーに持つ感覚なのでもある。彼にはジェファーソン以来の“誠実なアメリカ人”が表わされている。
☆後年はジェントルマン的になるも、『恐怖のメロディ』やこの作品や他にもあるけど、そして『J・エドガー』もであるが、女性に対する強迫観念はなんなのか。マッチョをこうした形で表わしているのか。映画テクスト外で、散々な目にあわしたソンドラロックへの負い目と償いの気持ちは『許されざる者』や『グラン・トリノ』の痛手を受ける女性たちに表わされているのか。彼が表わすストレンジなネットリ、或る部分が女性たちに表わされる。
☆カントリーソングやブルース、フォークソングといろんな歌の歌詞に表わされるような、ある男がいた、といった、イーストウッドが好む、真実/イストワール。『荒野のストレンジャー』では蜃気楼からゴースト或いはレジェンドが現れいでたが、『センチメンタル・アドベンチャー』では砂埃からイーストウッドは登場する。そこから始まる家族愛のハナシ。アメリカンらしい個が表わされ、そしてアメリカンらしい愛の姿が描かれる。『グラン・トリノ』も怒れるボクの伯父さん的なもの表わされていたけれど、これもまたレイジング・タチであった。『グラン・トリノ』のようにドラマティックな施しはない。しかし、エピソードひとつひとつにドラマがある。そんなホンキートンクマンであった。
☆『真夜中のサバナ』: スピルバーグもイーストウッドもマイノリティを表わす。人種的なところやジェンダー的なところだけではなく、しちゃいけないことをしてしまう少数派的なところも二人は表わす。しかし、日本的なのび太ではなく、逞しく生きるいじめられっ子を表わすアメリカン スピルバーグに比し、イーストウッドはアメリカン的に全く“平等”の精神のもとにマイノリティも誰しも彼しも表わす。スコセッシと同様にイーストウッドもまた、善悪の矛盾が混合されるヒューマンを表わす。しかし、スコセッシの主人公や人物たちに表わされる贖罪とは違い、イーストウッドはそこにおいてもアメリカンな平等を表わしている。ラスト・クレディットの少女像に表わされる天秤にそのこと表わされる。スコセッシの場合だったらそれを慈愛と称するだろうけれど、イーストウッドはそれをヒューマニティと呼ぶのである。善も悪も人間であるのならイコールにそれは在る。 P.S. イーストウッドのインタビュー集において、『真夜中のサバナ』に関して、編者は、冒頭に表わされる少女像は、善と悪、真と偽、などの両極にあるものを、いたずらに頬笑むと言っているが、なるほど、そうした見方は、あの作品の魅力を伝えるな、と思った。『ミスティック・リバー』もまた、現代にある様々なイシューを合理的に考えさせていくだけではなく、世の中の不思議さにも充ちて捉えるセンスがある。そうしたオカルト的な魅力が、イーストウッドにはある。
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