T2 トレインスポッティングおもしろかった。イギリス映画ってとこ、ダニーボイルってとこ、でもって、それらよりもアンソニー・ドッド・マントルてことが重要で観る。ドグマ95でのセレブレーションの方がよかったかな、でも最近のイギリス映画の私的傾向性において、ボイルも観とこ、となる。ドッド・マントルがオスカーを獲ったスラムドッグが今において全く映像に印象が残っていないけれど、この作品の映像、やはり、そして勿論、コリンのジュリアンとはまったく違う。ずっと同じ映画作家のテクスト観ていると、たとえばスコセッシにおけるロバートリチャードソンの硬質感、ミヒャエルバルハウスのボワンとした官能性、或いはアレンにおけるスヴェンニクヴェストの澄んでヒリヒリしたもの、カルロディパルマの彩りながらも枯れた色彩観、リンチにおけるフレデリックエルムスのドロリとした原色的なもの、ピーターデミングにおける闇に浮かび上がる彩り、と違いが感じられてくるが、ドッド・マントルはジュリアンとT2だけではやはりよく分からない。しかし、ショット内におけるスピード感覚に危険を孕みながらも豊穣にして澄んでいるもの、それは荒い粒あるなしに関わらず、クロエセヴィニーに有る麦芽的なものとエディンバラの街の風景、パブの陰影など同様に感じられる。T1まったくストーリー思い出せないけれど、観てると前回どんなだったか想起されずともやりとりで理解できてくる。ヤンチャやってもやがてホームへと回帰し、しかしバカ騒ぎする精神は消えることない、といった全体的なセンス。ラストとエンドクレディットのとこで、ガイリッチーやエドガーライトに先駆けてボイルはスタイリッシュと言われていたこと思い出し、その映像言語はやはりおもいしろいなと思わせる。も、筋立てとしての言語構築ではあるな。
ドッド・マントルは一作目ではDPやってないけれど、ユエンブレムナーとは20年ぶりの再会な感じであり、マクレガーは一作目はグリーナウェイの枕草子と同じ年であり、おまけにあれでは生まれたままの姿であり、それに比すれば、やはり20年経った感覚がブレムナーとマクレガーにある。
ログインしてコメントを確認・投稿する