カーペンターとリンチの音楽聴いてたら、観たくなってきた。カーペンターはまだ観てないの、例えばゼイリブとか。リンチはだいたい観てるからな、、ツインピークスの新しいの、やっと観たくなってきた。クローネンバーグも観たいかな、久しぶり。もう初期のはもういいかな、頭が爆発するのとかハエ男とか。ギミックみたいなのはもう観たくない。クラッシュはDVD持ってるし何度も観たからいまはいいけど、痛快さを求めるのでヒストリーオブヴァイオレンス。やはり、当然であるが三者三様ちがうね。いま思えば、クローネンバーグは文学部で小説家目指していたわけだけど、文学的感覚がどの作品にもあり、カーペンターはハワードホークス好きでアメリカンな感じがし社会派感じられるし、でもってリンチはあれっしょ? 異端なメジャーとかとしてくくらずに、作品を素直に観よう。カーペンター、フォッグもたしか観てないな。
カーペンターとリンチ、意外と朝によく合う。そう思わない?
『ゼイリブ』
エイリアンを殺しまくる主人公、インディアン(ネイティヴアメリカンではなく、イメージとしてのインディアン)を粉砕する騎兵隊の如くワイルド、もはや火の十字架かかげ同胞以外は皆殺しをしまくる白装束と同じかのようであるが、ごちゃごちゃ言わずお前らひっこんでろ、グレーなんてこの世にはないんだ、白か黒しかないないんだ、それが西部の掟だぜ、こうしたところがジョン・カーペンターの魅力である。いっけん不作法極まりないように見えても、カーペンターはいつものように、そこに潜在する理性をインパクトさせる。混沌をもたらしているこの合理化社会や、集団劇が行われるなかで主人公と他の人物たち、インディペンデントな彼らが自己生成し個人主義と社会の意義を見出していくことや、本質をもたない偽りの輝きとしてのこの消費社会が非合理で原始なる人間性(主人公たちにとって合理社会がもはや非合理でしかない)によってヒューマニティーを取り戻すこと、それらアメリカンな理性を表してみせるのである。ゼイとはなにか、彼らとは何か、外なる脅威とはなにか、それは同胞の絆を固める理由でしかない。リーズンなきリーズン、それゆえ行動で答えを出せ、それがプラグマティズムの圀の答えなのだ。それゆえ、目の前の敵はいつまでもホントのとこ分からずとも、いろんな敵が永遠不滅に目の前に立ちはだかる。まさに不在の現前性を表す映画というメディアに適している。しかし、ジョン・カーペンターはフロンティアという勇気を、永久に果敢に挑戦するパワーたるものを教えてくれる。このことって、バカみたいにみえるかもしれないけど、大事じゃね? 眠らないパワーが顕される。
リンチの痛快な作品はなにかな、と思ったが、よくよくみてみれば、デューン以降、主人公が勧善懲悪にワルを倒すから、どれもが痛快であるはずである。けど、痛快には感じさせないな。主人公自身の内にある光と闇の闘いがあり、光が勝ち、悪を倒すといった内面性が表される(というより寧ろ、闇のパワーが光を後押しするニュアンスがある)から、そう簡単には痛快に感じさせない複雑性がある。そして、その闇も完全になくなるではなく眠り続ける感じでのフェイドアウト。それゆえ、スッキリした終わりを感じさせるものではない。クローネンバーグのサイエンスな身体もそうであり、悪がいなくなるではなく、消えることなく在り続け主人公のボディはブロウする(両義性や贖罪を好むスコセッシがクロネンをよく言及するけど、それ理解できる)。それは時には悪を倒すものでもあるときもある。いわば、内面的な葛藤はリンチにもクロネンにも表される。しかし、カーペンターのアメリカンな主人公はずっとシンプルで、そんな葛藤なんてなく、悪は悪であり悪を倒すのである。三者三様に違いがある。違いが分かる俺はコーヒーを飲むことにする。
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