『さらば夏の光』
ナラタージュされる男女の会話、愛を語り合うときにはフィジカリー邪魔になると思われるフィロソフィカルなワード、とてもアランレネしている。記憶もまた表されながらも、オカマリとのキジュ―の女シリーズにおける特徴とは、見知らぬオトコとのドキドキ感であり、それが作品のエモーションを稼働させるものだと思われる。女主人公の心中はコンプリケイトである。どうにでもして、私をどこかに連れて行って、でもかまわないで、女の子だもん涙が出ちゃう、という訳が分からん感覚が哀しくも奏でられる。男女の間のこころのうごきが表され、終始観ていくとラストにはなんとも陳腐な昼メロにも感じられるストラクチャーである(ガラス越しの巡り合いはよかった)。されど、ラストの1968夏のレターズはやはり強烈に響くものがある。予告編をみると、愛そのものに反抗する愛、というコピーがあったが、喜重的にはその愛とは、自由であり、自由とはけっきょく永久に到達できないものだということ、言わんとしているのだろう。少ないスタッフで敢行した欧羅巴ロードムーヴィーであるが、その低予算、逆光でアクターの顔が黒く潰れているところ多々あるけれど、これもあるがまま、その自然体を取り入れ、夏の強い光も意識させるものとなる。この光の感覚が後のハイキーハイコントラストの表現に志向性として繋がっていくのだろうか。
ログインしてコメントを確認・投稿する