『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』久しぶりに再見。何度となく観ている。好きだからというより、よくわからない作品だから何度か観ている。かつては、ナレーションだらけでイメージの羅列という印象がついてまわっていたが、そのナラタージュ的なものってやはりエクスペリメンタルなのではなかったかと、久しぶりに今回は再見したのである。90年代のスコセッシはこうした形式のものが多いが、『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』はそれを徹底させている。コスチューム映画(コスプレ映画ではない)は、クラシックなドレスやタキシードを纏って人物たちが喋り合う感じですぐに眠くなるのであるが、『エイジ・オブ・イノセンス』も最初に観た時は眠ってしまった記憶であるが、スコセッシのこのコスチューム映画、彼のテクストらしくやはり、機敏なモンタージュやトラックインするいつものあれ、そして90年代に入ってから彼のには増えてくる短いショットのジャンプカットがディゾルーブしながら繋がるの、こうしたものはやはり面白いなとなる。
いつものように、父性的存在が造る因習といったもの、社会(この作品では“家”)という仕来りで苦しむ主人公、そういったエリアカザン的なもの、そして実像と虚像の重なりにおけるマイケルパウエル的な内的確執と情熱、が表されるが、フと思ったのは行定勲の『ナラタージュ』の松潤は描き方として、この作品のデイ=ルイスをモデルにしたのでは、と思ったりしてくるのであった。また、アルトマンとスコセッシのマニアであるPTAの『ファントム・スレッド』のファントムは、『エイジ・オブ・イノセンス』における実像と虚像が重なり合うゴーストをモティーフとして持ってきたのでは、とも思ったりする。
デイ=ルイスがミシェル・ファイファーに、貴方は現実にはない国に行きたいんだと言うが、それを願うのはデイ=ルイス本人の方であり、そうしたところは、トラヴィスをはじめスコセッシの主人公がいつも感じているものだとあらためて思えてくる。
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