『異人たちとの夏』
ややローアングルの目の下にクマができた風間杜夫のショット、彼の高い尖った鼻を観たとき、これは大林のノスフェラトゥなんだと理解できた。遥かノスタルジー、慈しまれる者とは何か、我々は写し移し取られる魂のなかで問いかけられる。評価が高いこの作品であるが、私的にはいつ観ても、いまひとつなにかピンとこない作品であった。前回観たときの記憶はもはやないが、今回や感じたのは、死者を尊ぶという以上に、生は慈しまれるものだということを、大林のテクストの織り成しのなかで想う。死者から魂を奪い取られるのではない。大林は生を慈しむトポスを、人が気付かずにいる四角を照らし出す。主人公はその場所で幽霊たちとともに、純粋無垢に生きらんとする。魂は写され、他者である異人たちに移される。映る断片はその姿として表される。魂が痙攣し、姿が映し出されるのである。片岡鶴太郎がその後の役者人生をすることを決定づけた作品というのが『異人たちとの夏』に対する多くの方の見方であるが、今回観るにあたり、当たり前だのクラッカーであるが、主役演じた風間杜夫がこの作品の素晴らしさを決定づけたのだと深く感じてしまう。この作品での風間杜夫、銀ちゃんと並び称される魂のスパーク放っている。松居一代とは遥かなる違いもった名取裕子のしつこさ、不快感もたらさぬものである。彼女は切ない。あーいったときには女性の寂しさを敏感に感じて、受け入れなければならないな、と切に思うかしこ。
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