『ホワイトハンター ブラックハート』、ラストは良心の呵責があったから「アクション」なのかな。。なんだか、2時間近く見せられ、破天荒な主人公の生き様を全否定されているかのように感じてしまった。そうした善悪のまとめ方にしてしまうとアメリカ映画の定型に入ってしまう、、けど、そうしたフォルムがアメリカ映画のそれなのでもある。それにしてもイーストウッド、ヘルツォークをやはり好きなのかなと思ってしまったりもする。アメリカンなフロンティア感覚(人間が自然を淘汰して開拓するではなく、荒野からも人間は精神を開拓され、ある種の共犯共存関係がそこに在るという意味でのフロンティア)だけではなく、ヘルツォークに表わされる僻地に入っていき生まれる”超越”がイーストウッドには表わされる。しかし、この作品ではそれがあったのかなかったのか。。
ところで、保留付きでトランプを推しているイーストウッドであるが、共和党にはトランプしかいないから仕方なしなとこも大いにあるのかと思ったりもしている。けど、この作品の主人公はなにかトランプとところどころダブるとこ感じるけれど、イーストウッドはトランプの人間的魅力を了承しているのだろう、と思ったりもこの作品観ながら考えたりもする。仕方なしに推す、ってこともないだろうし。『ホワイトハンター ブラックハート』の主人公は、イーストウッドが関心あるような不思議な人物であり、そうした意味では魅力ある作品。ジョンヒューストンの実話をそのまま描いているのかどうか分からないけれど、ヒューストンの作品群、久しぶりに観たくなる。友人が『荒馬と女』こそがアメリカ映画であると言っていたが、それがどうかはよく分からない。ヒューストンの作品あまりおもしろいとは思わなかったけれど、なにか観たくもなってきた。チャーリーパーカーにしてもJエドガーにしても、ヒューストンにしてもかなりにミステリアスである。イーストウッドは彼らを魅力ある人物にして、ミステリアスな人物として表わしている。
『センチメンタル・アドベンチャー』において、イーストウッドの既成のイメージが邪魔をするのか、きっと真面目であろう彼のもっているものが邪魔をするのか、或いは、アクターとしてはデクノボウであるからいけなかったのか、ダメ男を表現するには、それなりのアクターの表現力が凄くなければできないと思うので、イーストウッドはそれを表現できなかったように感じたりもした。『ホワイトハンター ブラックハート』の彼もちょっと?であった。ダーティーハリーでも西部劇の彼でもない。この作品での彼はイギリス風に気取ったところもあって、イーストウッドのイメージから掛け離れており違和感が最初はあった。けど、みていくと、なかなか魅力的な人物に思えてくるものあった。
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