テクストを生むフラグメントが他者性やアイデンティティにイシューされる。
社会の関わりに在る個としてのそれであり個人の中に有る知性としてのそれは、ジェファーソン的なアメリカの素朴に見つけられるものである。これはフォードやキャプラのときからも大衆に尊ばれ好まれる精神性であるが、ファレリー兄弟とベンスティラーにおいてもそれは同じである。アメリカのフツーはそうした精神性に培われる。素朴はあらわされても、ファレリー兄弟においてはノスタルジックなものに表わされ、スティラーはアーバンなユートピアに表わされる。ファレリー兄弟は凡庸な空撮で広大なトポスを表わし、そしてそれから個にフォーカスしていきその複雑さをシンプルな見せ方で魅せていく。スティラーは個の生きるトポスの広大さを強調し、そこに生きる個を鮮明にする。
全体性批判というでなくモナドからの作用としての社会でもなく、そうした意思宣誓するアメリカを求めるところがないことはフォードとキャプラの時代とも違ってきている。フォードのややタカ派的砦社会ともキャプラのポピュリズム社会のような強いアメリカ、すなわち共同体的結束幻想のアメリカはもはや失われている。この時代にそうしたアメリカはありえない。昔のようなアメリカがない時代、サンダースのアメリカは共同体の束縛から逃れた個の在り方を受け入れる社会であろうし、トランプが唱える強いアメリカはラップやパンクが表わすような不平不満を汲み取る現代的なアメリカであろう。ファレリー兄弟とベンスティラーが描くアメリカ人はもはや大きな物語に生きていないし、勿論それを取り戻そうともしていない。彼らアメリカ人はマイノリティであり、社会的弱者であり、総ての人々とともに新しいアメリカを生む者たちだ。
ニューハリウッドが表わした70年代もリドリースコットやテリーギリアムが表わしたバブリーなのに不安が押し寄せるアメリカやフットルースやフラッシュダンスなどヒット曲がパワロテヘロヘロヘビロテに洪水するアメリカを搔い潜った後に生まれるアメリカが表される。
つづく
ログインしてコメントを確認・投稿する