なんとなく、ようやく分かってきたかな、ブルースなりブルージーの感覚。むかしは淡谷のり子にも、昭和歌謡のなんとかブルースにも、なにがこれがブルースなんだ!ブルースは三連だろ!?と怒り心頭だったけれど、いまはそうではなく、ジャズの根底にもあるブルースのブルー、、日本のなんとかブルースに繋がるものがあることを。
一方、フリージャズや、ロックから派生してそれにアンチテーゼするポストパンクは、ブルースを換骨奪胎するでなく、そこに陥ることはない。
ただし、日本人の民族性なのだろう、オブラートをかける、というか、哀しみを謌うような「哀歌(エレジー)」に対して、アメリカのは「絶望と悲しみと喜び」を歌っている。感情のダイレクト性がちがう。そうした意味ではフリージャズでも、アートアンサンブルオブシカゴはそれは在る。アルバートアイラーもある。多分、ワールドミュージック的にユートピアな喜び溢れるドンチェリーも、それはあるのだろうし、コルトレーンもあるように思えるから、ブルー的な音はないけど、ブルースとしてのスピリチュアルはあるのだろう。
カサヴェテスのアメリカの夜の映像と音楽の合致性を見よ。
なーんちゃって。
p.s.
コルトレーンは終始一貫してブルースしてるな、人生。
ログインしてコメントを確認・投稿する