英国の脱コロニアリズム、或いはアルジェリアやエトセトラ、将来的なフロンティアを見越したアメリカによる独立運動の推進だったとしたら、それに反し、フリーダムが追い風となった公民権運動を疎ましく考えていたのではないかぁめりかーな。
トレーンやアイラーの死後フリージャズは下火になるも、きっと或る認識の植え付け、それに反し、アラウンド セヴンティーズ、People in Sorrowは現状を見据えBap-Tizumを新伝承し、Muは理想郷を求めOrganic Music Societyを試みる。
時代は向かう。アウラには表裏一体にして、不安も潜んでいる。思えばスコセッシとリンチ、都市社会あるいは“アメリカ”の憂鬱をスタイリッシュに表してきた。慈愛とはなにか?スペクタクルな社会における、マーシーマーシーミーである。ピカソやマティスからポロックやロスコに譲り渡したアラウンド戦後のように、パゾリーニの死後のヨーロッパから70年代の真ん中にスコセッシとリンチに“アート”は譲り渡され、譲り渡された彼らはもはや“参加”できない社会で世紀末へと向かいデカダンを表してきたように思われる。
『タクシードライバー』はストーリー的にはハリウッドの定型的にハッピーエンドで、それまでのハリウッドとなんら変わりないというアメリカン研究者がいるが、『キング・オブ・コメディ』でもそうだけれど、気狂い主人公がハリウッド的に突き抜けまでにハッピーエンドしていることに、スコセッシの変なセンスを快とさせるものをwHateverもってしまう。『ブルーベルベット』もそういった意味では変態的ながらも定型的である。80年代まではスコセッシもリンチも、彼ら的な、人は誰しも罪を持つ人物たちが成就することができる。『ハスラー2』のファースト・エディはI’m backと言うしキリストは成就したと言うし、『ワイルド・アット・ハート』は天使が降臨しLove me tenderである。
ところが、90年代に入ると、主人公は朽ち果てる系か、どうにかこうにか生きている系となる。『グッドフェローズ』、『ケープ・フィアー』、『ツイン・ピークス』、『カジノ』、『ロスト・ハイウェイ』そして『クンドゥン』である。絶対正義のもとの慈愛と救済なのか。アウラには表裏一体にして、ヒカリも育まれるはず。終盤の年には人間性が求められるかのように『救命士』と『ストレイト・ストーリー』が現れ、世紀末にどうにかこうにか少しの安堵あらわされる。その後は『ディパーテッド』や『マルホランド・ドライブ』に表されるように、闇とヒカリのせめぎ合いが顕著になる。そこにフリーダムはあるようでないようであるようでヨーデル、ラリイヒッヒ。“アメリカ”の憂鬱がスタイリッシュに表されるぁめりかーな。はたして、ツインピークスと沈黙にはなにが求められるのだろうか。どこへ向かう世界。
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