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2015年09月20日15:31

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ビル二郎マルジその2

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『ビル・カニンガム&ニューヨーク』(Bill Cunningham New York;2010)
  ひとつめにモノが表わされる。無常のモノが記録される。『ビル・カニンガム&ニューヨーク』にファッションが表わされる。ファッションは人と関わるもの。交換価値ではなく使用価値のあるもの。記録に、勤勉でユーモアもった孤独なドンキホーテとニューヨークが表わされる。このニューヨークという空間はカーネギホールのアパートメントや隣人、そしてファッションを纏うストリートの住人につながるもの。
  ふたつめに世界と関わる身体が表わされる。自転車を乗り回しせわしなく撮り続けるビルの身体や、職場やアパートメント、そして巴里の彼。彼はストリートのためにはマネーを受け取らない。スナップショットは人を切り取る。人は自由だ。世界と関わる身体を我々は視て聴き感じ、身体性を読み解く。我々は言葉の生々しさを読み解くことが出来る。出来事はハプニングを有する。
  ひとつめのモノとふたつめの世界に関わる身体がレイヤーし組み合わさり、三つ目の言葉の生々しさが表わされる。身体の生々しさと同様に、言葉には生々しさが在る。この言葉は人物から発せられる言葉だけを言うのではなく、身体と同義語的にあるものとしての言葉である。ロゴスであり理性であり、或いは、これらがイデオロジカルすぎると言われるのであれば「人間性」といえるもの表わす。
  人間性には権力や観念が拘束し制約しない、自然発生する所有権である私的財産が表わされる。自由だ。勤勉でユーモアもった孤独さ、それは人間のひとつのシェーマ、人間性である。
  ファッションとは真面目でありユーモアであり孤独である。それは人間のひとつのシェーマであり、それそのものが人間性だと言える。ファッションを纏うストリートの住人たちの自由が『ビル・カニンガム&ニューヨーク』に表わされる。
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『二郎と鮨の夢を見る』(Jiro Dreams of Sushi;2011)
  無常のモノの記録が表わされる。寿司というモノが求心力となる。素直さ/清さを掴んだ、或いは掴もうとしている職人たちが図としてある。地が二郎の空間に表わされる。この空間は築地や家族につながるもの。
  世界と関わる身体が寿司を握る寿司職人たち、素材と関わる築地の職人たち、職人たちの手が生み出す寿司、寿司を堪能する人々に表わされる。ハプニングを有する身体は清さを積み上げている。
  言葉の生々しさが二郎という存在として在る。テヤンデーなベランメー職人が浮き彫りになるのではなく、子を想うひとりの親の姿があらわされるだけなのでもなく、ただただ寿司というモノを求心力とさせる技が表わされるのである。それはもちろん、握りの技が披露されるからなのではなく、二郎という空間にいる彼がその場を創るからである。場は生々しさを生む。
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*  場が生々しさを生む、とそう考えれば、このテクストのカメラアイはそれを作り上げていくというより、その場と同化したものであったような気がする。だけど、それが結果生まれたというより、そうしたプランが最初からあってこれが生まれたような作品のようになにか感じてしまう。デクパージュになにか問題があるように思える。
  極めた職人が極めた職人をドキュメントすればどんなものが生まれたのか、とも思ったりする。しかしながら、ゴダールやパゾリーニがすきやばし二郎を追ってどうやったか知りたいなぞ決して思わない。だけれども、キューブリックやカサヴェテスだったらどう切り貼りしたのだろうかと思ったりするのである。ところで、スコセッシとリンチがしたらどうなったか。スコセッシとリンチがこれを題材に選んでも素材にしかなりえず、フッテージをズタズタに切り刻みペッタンバッコンドッキャーンとし、二郎とは誰なのかとか何であるかとかまったくもって分かるわけない別のモノ創り上げるんだろうなと思ってしまうのでもある。彼らにとっての意識とは己の意識であり、過剰である。ピーターグリナウェイがやってもそんな過剰が生まれるように思える。けれど、デレクジャーマンがやったものは、なんだか観てみたくなる。彼が寿司を好きなのかどうかは分からないけれど、二郎も築地も、そして“人々”というものはジャーマンに合っているように、そう思える。
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『ペルセポリス』(Persepolis;2007)
  無常のモノが現在進行形のマルジとイランと世界に表わされる。このテクストが表わしているものは原作者でありこの作者が体験した出来事を基にしているのであり、彼女の意識は無常のモノの記録として今此処に在る。図はマルジである。
  世界と関わる身体が無常のマルジに表わされる。彼女が反応するものは、シャーを追い出すために戦う民衆、粛正と投獄が繰り返される新世界、戦争が起こる世界、偏見が身に降り掛かる海外、偏見がある新世界だ。
  このデクパージュにおいて、モナドに生は縮約されている。ひとつひとつに意味(センス=知る/触覚)はある。全体を構成するためのひとりではない。全体を構成するでなく、ひとつはひとつに反応する。言葉の生々しさはコンテクストに生まれる。
  無常のモノが記録される。あるいは、無常のモノそのものが観者の意識に記録される。ムーブは対象にあるのであり、観者の意識もムーブする。現在進行形に過去=現在のエモーションは宿っている。
  『ペルセポリス』において、疎外から人間性を取り戻すのは我々が今此処で触覚するもの、すなわちマルジのバンドテシネでありアニメーションである。モーションにエモーションが表わされるのであり、ムーヴィーはムーブする観者と同化する。
  無常のモノが記録される。あるいは、無常のモノそのものが観者の意識に記録される。ムーブは対象にあるのであり、観者の意識もムーブする。しかしながら、それら2つのムーブには乖離するモノがある。それは『ビル・カニンガム&ニューヨーク』と『二郎と鮨の夢を見る』においても言えるのである。
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★ 外化されながらも、もとに戻ってこない未知のディスタンスが、今此処にエキゾティズムとしてある。その野生の眼に現前するものこそが、現れずにして顕れているものである。
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