『ペルセポリス』(Persepolis;2007)
アンゲロプロスは亡くなるとき故国になにを思ったのだろうか、と思ったことがある。ギリシャは現在に通じる危うき時期にすでに入っていた。『ペルセポリス』、90年代の始めの方が終盤に表されるが、キアロスタミが世界に名前が広がった時期って、かなり保守的なころ、ってより、かなり危険な時期だったんだね。表現の自由もしかり、あれこれ自由がかなり制約されていた時代につくられていたのか。そんな時代でも主人公のマルジは自由奔放に自由を模索する。彼女が生きた70〜90年代が表される。過去は現在進行形としてある。
青春の1ページって感じで、微笑ましい。投獄や粛清があった時代、等身大な自由や自律性ってなんなんだろう、が表される。『ドクトル ジバゴ』のラーラや『ミラル』の主人公のようなドラマティックな激動はなくても、現在進行形にドラマがある。残酷的に厳しいルールがある場所であってもそうでなくても、ドラマはどこにだってある。多元化される(ようにみえる)世界のなかで、自由や自律性はさらに考えられていく。時間は現在進行形に在る。
青春はヒトのなかに存在し、今日に息衝く。自由はいつも側にある。『タクシードライバー』のニューヨークでトラヴィスが感じるように、あるいは、『ブルーベルベット』のスモールタウンでジェフリーが感じるように、安倍政権の日本にだって現在進行形は感じられるのである。美しくも辛く淡い夢が過去に表されるでなく、ペルセポリスは今日を紡ぎだし押し流されことをなくす。マルジの自由奔放な自由は、このテクストに現在進行形に表されている。
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アイ・オブ・ザ・タイガーが流れるところにつながるところ、やはりフロイトとマルクスが助けてくれるのかと思ったが、その後に描かれるように、現実においてそれらは助けにはなってもマルジを救ってくれることはない。イズムは時間の一部でしかなく、時間はさらに大きい。現在進行形は人間という存在のなかに大きく存在している。自由や自律性とはなんであるのかが、現在進行形に在るのだ。
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