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2015年05月19日22:55

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希望の国

『希望の国』(2012)

  それぞれのマニエラ、、、中島哲也はユメ(記憶/意識)をドリーム(エンターテイメント)に表し、豊田利晃は渋谷にして渋谷ではないように、団地にして団地ではないようように、観念をその場においてイストワールとして表し、園子音は質料-形相的なソニマージュ、素材そのものをテーマに現前させる。マルセルカルネのようにきわめて“映画”的であるが、きわめて、よりゴダールでござーる。園はあのー、そのー、戦後派以外のなにものでもないのか。部分が全体に抗いシネマとなる。アンチイリュージョン、、燃えあがる菜園と木、そして川原崎健三はとてもまるでATGへのオマージュ的である。まるで今も生きているかのような夏八木、ふたりの盆踊り、おもいっきり弾ける朝、原発の音の軋み、揺れるテーブルと人々の悲しむトポス、悔しいと言うふたり、夫婦のモノガタリ、立ち入り禁止の看板、放射能と偏見、笑いと哀しみ、この子を守る戦争、防護服での記念写真、観客席であると同時に此岸であるこちらとあちらの彼岸を分かち合えるおーい、おーいの叫び声、杭と境界線という傷跡、皆の笑み/恵みを生むチエコ、そしてふたりの熱いキス、切り取られ貼り組まれゆく情景がその織り成し、“変容された自然”である人間性を大地に根差させる。
  被爆というコトバが表されるとき、フクシマとナガシマがヒロシマとナガサキに聴こえてくる。質料-形相は3.11にあるということ、それは長いスパンの時空間を取り入れる。最終盤に海が表される。海の向こうに希望があるのではなく、国という境界線のこちら側に、“戦後”がある。多くのことを抱え込み病気にならざるえないこの国に、守るということ、共感、そして愛が表される。漂流民ではなく、我々は大地に根差す。此処は地震を知っているように、抱え込む戦後を知っている。一歩一歩に希望が表されるのか。焦るな、ドンとかまえるのか、愛があるから大丈夫なのか。おーい、おーいの叫び声がまだ聴こえてくる。福島が表される。開きが顕れている。
  ふたりは歩いている。質料-形相的なソニマージュ、その生産的活動はきわめてシネマ的である。断片の媒介はエクリチュールを造らない。戦後はそこにはない。理念も概念ももたないのである。希望が此処に顕された一歩一歩に見えてくるかのように。




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