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2025年12月12日22:30

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NHK-BS「英雄たちの選択」『権力奪還へ!秀吉七回忌、淀殿の秘策』~1

12月1日(月)放送のNHK-BS「英雄たちの選択」は『権力奪還へ!秀吉七回忌の大祭礼〜屏風に込めた淀殿の秘策』。

ここで言っている「屏風」とは、《豊国祭礼図屏風》なるもので、秀吉の側室淀殿(1569-1615)が夫秀吉(死後神格化されて豊国大明神と称された)七回忌の臨時祭礼の様子を豊臣家御用絵師狩野内膳(1570-1616)に描かせた六曲一双。
現在は京都市東山区にある豊国神社の宝物館に所蔵されている。

私は今年2025年3月2日に同神社を訪れ、宝物館でこの図屏風を観ている。
番組は当然豊国神社も映し出しており、私はまざまざとその光景を思い出した次第である。

〈参考1〉「小雨の方広寺、豊国神社」(2025.3.7記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989535688&owner_id=3341406

さて、実は同名の図屏風がもう1点存在している。描かれている内容は前者と同じだが、制作時期が前者より10年程あとで、岩佐又兵衛(1578-1650)の手によると考えられている。
こちらは名古屋の徳川美術館が所蔵しており、2023年11月1日に観ている。

〈参考2〉「人間讃歌〜江戸の風俗画」/徳川美術館(2023.11.3記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986268608&owner_id=3341406

〈参考3〉「いきすぎたりや 廿三〜豊国祭礼図屏風」(2023.11.14記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986339995&owner_id=3341406

本番組が、前者(豊国神社版=狩野内膳版)に比重を置いて解明しようとしている事柄は、
・淀殿の隠された狙い、何故かくも壮大な祭りを行い? それを描かせたのか?
・徳川家康との権力争いにあって、豊臣復権の秘策とは?
関が原から大坂の陣に向かう時代、豊臣・徳川の静かなせめぎ合いに光を当てる。


豊臣秀吉の七回忌臨時祭礼は関ケ原合戦(1600.9.15)から4年後、1604(慶長9)年8月に盛大に催された
秀吉に仕えた太田牛一(1527-1613)著『豊国大明神臨時御祭礼記録』によると、
…花車(きゃしゃ)風流をかざつて花都(はなやか)なる出立にて踊上り飛上り拍子を合(あわせ)乱拍子…とある。

秀吉の七回忌はどんなものだったのか?
豊国社(とよくにのやしろ)の責任者梵舜(ぼんしゅん/1553-1632)の日記『舜旧記』では、
…1604(慶長9)年6月12日、梵舜は豊臣家家老片桐且元と伴に家康を訪ね、祭礼の式次第を説明した…と。
つまり、豊臣家が企画し、当時豊臣政権の大老であった家康が許可して行われたという事。費用は豊臣家の負担。
8月4日、家康は1日限りという条件付きで祭礼の許可を出した。

8月14日、臨時祭礼始まる。
内膳によって描かれた祭礼の全容。
御幣と榊を掲げた100人の行列。続いて200人の神官が馬に乗ってパレードする「馬揃え」。着飾った美しい衣装は祭りのために新調されたもの。馬を提供したのは前田利長、加藤清正、福島正則、細川忠興、蜂須賀家政ら、秀吉に取り立てられた大名達。
祭りのために設えられた桟敷席には、公家、武士、僧侶が身を乗り出して見物している。

行列は四条 建仁寺西門前を出発。群衆が埋め尽くす大和大路を南へ、約1km練り歩き、豊国社へ。
その山門の中では特別なイベントが行われた。
この門は移動され、東寺南大門として現存する。明治28年に移築された。

門を入って右横にあるのは三十三間堂。豊国神社はこの寺を含む程広大な規模だった。
中央の舞台では秀吉が愛した能の奉納が行われた。
これは特別なもので、大和の猿楽四座、金春,金剛,観世,宝生揃って翁舞を踊った。通常は交代でやるもの。
奥の社殿前の階段下では田楽の上演。小刀をジャグリングしている男がいる。

1日限りだった筈の臨時祭礼は翌日も続いた。
豊国神社前の広場では、8月15日、町衆達の風流踊りが行われた。上京下京から五つの組が参加、それぞれ意匠を凝らした作花笠鉾(つくりはながさぼこ)を披露、鉾を囲んで各100人ずつの踊り手が舞い踊る。
その回りには扇を手に踊りを盛り上げる者が100人、更にその外側に警護の者100人の輪。
総勢1,500人を超える町衆らが踊りを奉納した。
町衆は、派手で煌びやかな衣装をまとい、好みの仮装で参加。七福神の寿老人、弁慶、南蛮人、天狗、タケノコ等々。タケノコはめでたいモチーフで子孫繁栄を象徴した。
仮装にかかる費用は、豊臣家から町衆に出ていたようだ。

内膳版、右隻左隻の全体図と、「馬揃え」、田楽のジャグリング、寿老人、南蛮人、天狗、タケノコの部分アップは、〈参考1〉のリンクをご覧頂きたい。

クライマックスは夜も収まらず、見物人の列は三条大橋から五条大橋迄続いた、と伝えられる。

町衆が歌った歌詞の一部が記録されている、
…豊国の神の威光はいやましに万世までも久しくめでたし…。

風流踊りの一団は内裏にも赴き、後陽成天皇の前で踊りを披露。天皇も面白くご覧になった由。
更に、5日後、町衆達は伏見城に行き、家康にも踊りを見せた。前掲の歌詞を家康は苦々しく聞いた事だろう。

淀殿は、祭りが終わると早速狩野内膳に屏風絵を制作させた。
狩野内膳は、屏風絵を得意とした画家で、丁寧な細部描写に評価が高かった。見ていると音迄聞こえてきそうだ。
祭りの翌年1605(慶長10)年、完成した屏風絵は豊国神社で公開、衰えぬ秀吉の人気をあらゆる人々に見せつけた。

淀殿がこれを描かせた理由は?
豊臣家が催した一大イベントである事のアピール。豊臣家の権威の凄さを見せつけたかった。
例えば、大仏殿は祭りの前年に焼失して存在していなかったが、絵には描かれている。
秀吉が建てたモニュメンタルな建物。奈良の大仏殿より大きい。秀吉の権力を示すのに好都合だった。
秀吉のおかげでこの世に現れた王道楽土と捉えた人もいたろう。

秀吉七回忌祭礼が行われた訳は?
1600(慶長5)年9月、関ケ原合戦は徳川方勝利に終わるが、家康はこの合戦で天下取りを確実にした訳ではない。
豊臣秀頼(1593-1615)の支配は、摂津,和泉,河内のみ(現在の大阪府と兵庫県の一部のみ)となったが、関ケ原合戦は豊臣政権内の内輪揉めという位置づけで、天下の政権は形式的には秀頼(当時8歳)にある。

(続く)
 
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