mixiユーザー(id:3341406)

2025年03月07日10:00

91 view

小雨の方広寺、豊国神社

3/1(土)〜2(日)の京滋小旅行。
2日目の朝は小雨。
Tホテルのチェックアウトを済ませ、タクシーで東山区大和大路に面して隣合う方広寺と豊国神社へ。何れも豊臣家と深い関係がある。

方広寺は、豊臣秀吉が「奈良の大仏」(14.7m)より大きな「京の大仏」(19m)を安置するための寺として、1595(文禄4)年に創建した。京の大仏と方広寺大仏殿は、地震や落雷、火事で幾度も失われ、また再建された。
1843(天保14)年に再建された4代目の大仏は当初のものより高さが5m低くなってしまったが、実は1973(昭和48)年迄存在した。これも失火により焼失、その後再建の動きはない。
豊臣秀吉が亡くなった1598(慶長3)年時は、初代大仏と2代目の間だった。

その後、1600(慶長5)年関ヶ原の戦い、1603(慶長8)年には家康が征夷大将軍に就任するという、歴史上の大きな動きがあった。
1612(慶長17)年、豊臣秀頼が父追善のため企図していた2代目の大仏と大仏殿が完成、落慶供養を前にした1614(慶長19)年、梵鐘の鋳造が済み、それに彫り込ませる銘文も作成された。
同年7月、家康はこの銘文に問題があると"難癖"をつけた、即ち、「国家安康」の4文字は家康の名を分断しており、「君臣豊楽」には、豊臣が君主となる時代の再来を乞う底意がある、と。
単純化し過ぎてはいるが、これが「方広寺鐘銘事件」と通称されるもので、同年10月「大坂の陣」勃発、そして豊臣家滅亡の原因となったとする。

下が今も方広寺の鐘楼に吊るされている梵鐘である。国指定重要文化財。東大寺,知恩院のそれと共に日本三大梵鐘とされている。
天井には美しい格子絵。極楽浄土に住む迦陵頻伽(かりょうびんが)は上半身が人間、下半身が鳥の姿で、妙なる声で歌う由。
フォト

擦れて件の文字は読みにくいが、ともかくその場所が分かるようにと白い色が付けられている。
フォト

あれだけ問題にした梵鐘を、家康は、鐘楼から降ろして鳴らせないようにはしたが、何故破却しなかったのだろうか、そんな疑問を持ちながら撮影した。

2000年になって、大仏殿の基壇と台座が発掘調査で発見された。
跡地は豊国神社の裏手にあるが、現在は見学できるようにはされていなかった。

すぐ隣の豊国(とよくに)神社に移動。
雨は僅かだが降り続いている。
石畳みの参道から見る豪華な唐門は国宝指定。
フォト

フォト

秀吉は死の翌年、1599(慶長4)年、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に廟が建てられた。同年、後陽成天皇から「豊国乃大明神」の神号をもらい廟は「豊国社」と名付けられた。

1615年豊臣家滅亡後、家康は豊国社を廃絶、時代と伴に荒れ果てていったが、明治維新後再興され、現在の地に復興、「豊国神社」となった。
正面の唐門は、大元は二条城にあったものだが、1627(寛永4)年、南禅寺塔頭金地院に移築されていた。伏見城遺構説もあるが、決め手に欠く。
唐門より中には入れない。

今回は宝物館の見学を愉しみにしていた、中でも狩野内膳筆の《豊国祭礼図屏風》(六曲一双)を。こちらは「ほうこく」と読む。
・右隻
フォト

・左隻
フォト

同名屏風では、徳川美術館所蔵の岩佐又兵衛筆も有名だが、何れも国の重要文化財指定。
又兵衛作については以下レポート参照。
・「「人間讃歌〜江戸の風俗画」/徳川美術館」(2023.11.3記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986268608&owner_id=3341406
・「いきすぎたりや廿三〜豊国祭礼図屛風」(2023.11.14記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986339995&owner_id=3341406

描かれた「豊国祭礼」がどういうもので、如何にして制作される事になったかは、上のレポートが参考になるだろう。

何れも秀吉七回忌に当たる1604(慶長9)年9/14〜15の臨時祭礼の模様を描いたもので、こちらは豊臣お抱え絵師 狩野内膳(1570-1616)による。
又兵衛より早く、1608(慶長11)年に豊国社に奉納されたという記録がある。
美術史家 黒田日出男によれば、発注者は秀頼とその母 淀殿であろうとしている。

右隻には豊国社の社殿が中央に描かれている。
豊国社総門から左に延びる築地塀沿いには、200匹とも記録が残る8/14の「馬揃え」の儀式の様子が描かれている。
フォト

総門から入って楼門前では、仮設舞台で大和猿楽四座による能が、更に、楼門から入って石段前では田楽が奉納されている。田楽の一種「刀玉」では、小刀を投げてジャグリングのような事をしている人の姿がある。
フォト


左隻には、中央やや右に方広寺大仏殿があり、その前の通りでは、8/15に行われたこの祭りの主役である京の町衆の「風流踊り」の大輪舞が描かれている。各町はそれぞれの衣装をまとい、鼓・笛・太鼓に合わせて踊り、団扇や傘鉾を掲げている。
仮装では、南蛮人や七福神の姿を擬する人。
フォト

タケノコの着ぐるみをまとう人などもいる。又兵衛も同じものを描いていた。上に貼り付けた「「人間讃歌〜江戸の風俗画」/徳川美術館」(2023.11.3記)のリンクにタケノコ男の絵があるのでご覧頂ければと思う。
フォト

当時の風俗を示す史料としても大変価値が高い。

前掲の黒田日出男によれば、右隻では、第四扇上部、田楽を見物する人達の中の老尼、そして、左隻では、第二扇中央、大仏殿楼門の石段で風流踊りを見ている人達の中にいる老尼が、秀吉の妻 高台院(北政所/ねね)(1549?〜1624)だと特定している。
下は左隻第二扇部分。
フォト

どちらも醜い老婆の顔で描かれていて、本屏風を発注した淀殿との悪しき関係を暗に表わしているとの事だ。

他に重要文化財の「鉄燈籠」や、「豊公御歯」(*)など興味深い展示品が多数あった。

(*)専門家の分析によると、左上一番奥の前の臼歯だとの事。この鑑定から秀吉の血液型がO型だった事も判明している。

豊国神社正面の石鳥居を出てじきの左手には「耳塚」なるものがある。「鼻塚」と呼ばれる事もある。
フォト

文禄・慶長の役(1592-93/1597-98)では、首を持ち帰る事が困難なため、朝鮮及び明の戦死者からは耳や鼻をそいで人数を数え、また、戦功褒賞を考慮したと言われている。
1597(慶長2)年、秀吉の命で築造。
盛り土をし、その上に五輪塔を建てて供養した。朝鮮出兵の戦果誇示を狙ったとの説もある。
正直言って、いやな史蹟だ。
周囲の石の柵には、何代目か分からないが、中村雁治郎や片岡仁左衛門など歌舞伎役者の名前が多数彫り付けられている。

門前の京菓子の老舗「甘春堂」で土産を買い、タクシーを拾って錦市場へ。
あれこれ眺めて回り、一旦Tホテルに戻って預けた荷物を受けとり、今度は地下鉄で京都駅。
「ポルタ」でランチを食べ、さて、最後の目的地、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールへと向かう。
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2025年03月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031