白痴美ではなく無知美である。竹内結子の方ではなく、妻夫木の方である。無知による清きラブ。幻に魅せられ、象徴に抗い、純愛を全うする。『春の雪』がもしティピカルにミシマさま的なのなら、行定も概してそうである。窪塚や森山や永瀬や林遣都や伊勢谷など世に対してトンがったくせ者として配しても、純愛がピュアに表される。そして、その愛には血が濃紺にあらわされる。 現世に返り血を浴びせるファロスかな。或いは、ファロセントリズムにプロテストするファルス。これがミシマ的でもってユキサダ的ということなのか。 前半はオペラな音楽と華族が表されても、ヴィスコンティではなく寧ろ、ダニエルシュミット的なマニエリスム。エスタブリッシュショットの屏風絵から横移動の庭園、男女の主人公たち彼ら自身、そしてそれとコントラストされるサイレント映画、連子窓の横移動によるスリット覗き絵動画的作用、そんなこんなによって二次元のフラットたる映像の自律性に効果を持たせ行定的歪みを堪能させ、後半はセカチュー行定的に純愛を堪能させる。
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