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2025年11月01日10:52

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フェリーニブニュエル28


 フェリーニとブニュエルはフェイスブックにしょっちゅうリマインドされ自身の作品に思い描くものに近いのかなと思ったり(確かにインスパイアされている)観たくはなるものの、AIに現在はヨーロッパではキリスト教の信者の数は減少していないか?と尋ねると、いいえ、減少しています、とのことでもって、減少や無宗教者の増加などもアンサーとしてあり、それなのなら、彼らのテクストを2時間なり3時間なり一生懸命観ても、テーマ的に現在ではナンセンスなもの、となかなか観る気にならない、ないし、観ても、この時代はそうだったんだな、で客観的回顧的に終わるのかな、となるも、やはりフェリーニとブニュエルはフロイトしてるしシュールしてるしギャグってるしで観たい観たいという欲望が抑圧を突き破り顕れてくる、とは言うものの一方で、神ってこの現在、コンテンポラリーにおいてナンセンス、ヨーロッパでも神はいるのかいないのか、と悩んでるヒトが少なくなっているようだし、そもそも私が神はいないと思っているわけであるし、神とは人間がクリエイトしたものだと思ってるし、で、そうした意味では現在世界ではズレがあるな、となるも、現在的思考で観ればいろいろ考え巡らせてゆけるではないかな、となる。ほな、やってみようか。

☆フェリーニ
 *考察にあたって、神の不在とかあーやらこうやらではなく、フェリーニに描かれる世界は、神が生み出した文化や日常として考えた方がよい、と、観るためには、となる。フェリーニはベルイマンほど神がいるのかいないのかという問いやテーマを掲げているわけではない。神が溶け込んだ日常というものがフェリーニには表されている。ここで言う神が生み出した文化や日常とは、神を生み出した人間と神が生み出した文化背景に培われたものとしてのそれであり、ならば、そうしたミーム(現在巷でITワードとして言われているそれではなく、本来の意味、つまり身体化させる文化DNAとしてのミーム)は欧羅巴圏にはいまだ根強くあるはず、で、フェリーニは現在的な意味でIt works。

☆ブニュエル
 *宗教が生み出した贖罪、そう言ってしまえば十字軍遠征からボスニア・ヘルツェゴビナといろいろあろうが、皮肉もった社会コメンタリーをいくつかの作品で表すブニュエルであっても、宗教が生み出す惨状は現在は描かれえるものであるのであり当時においてはブットビすぎになるので(ブニュエル自身、惨状あるいは惨状背景をユーモラスに表しているし、でもって、レネもゲルニカ等で惨状を表しているから当時であってもトビすぎってことそうでもないのかな)、そこまでの考えにおよばなくてもよいとは思うも、理性という点ではどうか、宗教が生み出した”理性”(西洋世界の理性はクリスチャニティとは切っても切り離せない蜜月の関係なのではなかろうか)への攻撃という形では現在もブニュエル、It worksにきっとなるはず、夢の狂気と理性への終局的な回帰、でブニュエル。
☆そしてふたりは、すべてを剥ぎ取り裸になること、夢の顕れ、を描いているであろう。そこには宗教的地平線はなく、枠を超え、人間という大地が見据えられるだろう。


   と思えば、観る気が起こる。

 ところでYouTubeに『エル』と『道』があるので観る。

☆『エル』 覚え書き
 *現在においては高評価を成しているブニュエルはメキシコ時代の作品であるが、公開当時においては上映中にお客の笑いが絶えることなく、興行的にも批評的にも散々たる結果となった作品と聴く。かくいう私も本作品をかつて最初に観たときは、妻が他の男性と喋るときに嫉妬心溢れかえって主人公の突然の豹変、大笑いしたりとこれってコメディ?とは確かに思ったのではある。けれど同時に、凄い作品だな、とインスパイアされることとなる。当時の観賞記憶をたどれば確か、ブニュエルが意図したかどうかは分からないが、私的には笑いと狂気の境界線を綱渡りするような点がこんな作品とでったことがないとグオーンと衝撃を受けた作品であり、それに、ラカンはパラノイアの典型を本作品は出しているといい意味で評価されているらしいけれど、ヒトってこんなに豹変するものかと不思議には思うものの、それでも、ヒトってこういうものかも、と何度か観賞したあと納得してきてそんな狂気を表出しているなと思ったのである。
 *ラストのジグザグ歩く主人公は宗教に入って改心してもヒトは変わることがない、というよりかは、最初から熱心な信者である主人公であるがゆえ、培われたキリスト教的理性へのブニュエルの批判がそこに表されているのではないか、そうしたカソリック批判は『アンダルシアの犬』『黄金時代』から後期のフランス時代までずっとあるものであろうし、脚フェチ紳士の冒涜も同じようにずっとあるものであろうし、本作品の主人公が『黄金時代』のガストンモドにまんま見えてくるし、後のフェルナンドレイはエル(その男とかある男という意味らしい)が後になる初老の男であるなと思えてくるのである。女性主人公は昼顔ドヌーヴのように犯される欲望を持つことはないしトリスターナ・ドヌーヴのようにパートナーに対して恨み辛み吐き気をもよおすようになるほどまでにはならないが、男性からのパワハラは同じように受け、それもまた欧羅巴理性が生み出す贖罪の在り方を提起しているのではなかろうか。

☆『道』 覚え書き
 *逃げ出したジェルソミーナのもとザンパーノのバイクカーが近づいてくる。ハイアングルのジェルソミーナとややローアングルの、バイクから降りる黒いマスク付けたザンパーノ、彼はなにか神のように見えてくる。クリストファーノーランって、ダークナイト ライジングはべインを表すにあたってザンパーノを参考にしたのではないか。
 *表象的なセンスで本作品、主人公ジェルソミーナは神に導かれるヒトであり、神に必要とされ、されど、神は天使を殺し、ヒトも見捨て、遂には最終章、神に慈愛が溢れてくる、という感じられ方もあるが、フェリーニがゆえ人間を表し、慈愛の反語としての世界がそこにはあり、人間に在る哀しさを表出を本作品では行っているのだろうかなとなる。
 *『道』と言えばジェルソミーナ、シネフィルだけではなく多くの人にとってこれは合言葉だけれど、本作品は一回だけしか観たことがない。『カビリアの夜』は何度も観ているのだけれど、本作品はとても悲しいという記憶があり、あまりまた観たいという気が起らなかったのである。『カビリアの夜』の主人公カビリアの方が陽気であり、おっちょこちょいであり、夢見がちであり、人間味をそこにとても感じるのに比し、同じジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナは空想が生んだ主人公のようで人間味をあまり感じることがないなとなり、それも再見しなかった訳アリなのである。されど今回、ジェルソミーナの人間的な魅力をあるがままの世界のなかで見出してしまう。
 *かつて観たのは幼き頃、それゆえ、ザンパーノは荷台に入れと言ったあとの次のショット、ジェルソミーナが隣で寝ているザンパーノを愛らしく見つめるところ、ザンパーノは彼女になにもしなかったんだな、実は優しい奴なんだなザンパーノ、と思ってしまったのではないかな、だからその後に起こる出来事の繋がりがけっこう理解から断絶して観ていたのではないかな、となる。でも今回は、ジェルソミーナがザンパーノを見つめるところ、女にしてくれたこと、愛してくれたことで彼をいとおしい表情で見てるんだな、と理解し、その後に起こるザンパーノが他の女性とどこかに行くことによる哀しみ、結婚すること提示してもなにをバカなこと言ってんだみたいなかわされ方への不条理が理解できてくる。ところで、荷台での女性としての喜び、ってこれ、本作品では描かれない、シーンとしては抜かされた行為を阪本順治は『顔』で藤山直美と中村勘九郎によって具現化させているのかな、となる。つまり『顔』のモティーフは『道』にあるのではないかな(そのシーンだけであるが)。女になった彼女を知ることであっしは、ジェルソミーナの人間としての苦しみが作品のなか湧いて感じられてくるのである。
 *フェリーニはブニュエルと同様、カソリックに批判的な姿勢なのだろうと思っていたのだけれど、現代において変化しているカソリックに対して疑心があるだけで、カソリックのオリジナルに対しても、そして奇蹟に対しても信じる心意気は溢れているのかな、となる。


          エル(Él 1953年)




          道(La Strada 1954年)








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