アメリカにいるときはモー娘。のMVとかドンパチドンパチのハッシュにギラギラで恥ずかしかったけれど、日本にいるとやはりここは歌舞伎の語源となるかぶくの文化、デーハーにドンパチするのもそこまで違和感を感じることなく、新宿や池袋のネオンと遜色なく溶け込んでしまってしまっている。キャラクターとアントマン&ワスプおもしろかった。前者、サイコパス・スリラーというよりも松本清張映画的な、ヒトの関係性を見つめるセンスが表され、役者たちのキャラクターが重要でありそれを演じ切っている観に思える作品である。フカセではない方のサイコの特異な容貌、エンドクレディットであのヒトだと分かり、がんばれベアーズのアールヘイリーがウォッチメンやシャッターアイランドで復帰した時以上に衝撃を受ける。後者の方、フィオナアップルになんとなく似ているエイヴァがアメリカン・エモ系に感じられ、彼女の(心理的にも身体的ゲシュタルトにおいても)見せる不安定さは、日本における平手友梨奈や家入レオ系にも通底するところあるのかな、となる。エンドクレディットのミニチュア、やはりアメリカも日本もオタッキーにサブカルがアタッキーしているな、となる。ナインティーズのブリトニーやアギレラは彼女たちの前の世代よりも成長を止めるの求めるかのように女子化を求めているかのようであったし、セレーナゴメスやアリアナグランデはそれよりもさらに幼稚化を押し進め、サンリオ化とガンダム化で大人の階段を登ることをやめたがって幾年月の日本とほぼ同水準になってるかのようである。PTAやノーランがリアルが希薄となる現代の空洞に不安がっても、そこにほんまもんの戦艦をおいたりプラグマティスト的主人公を配置して生のエナジーをみなぎらせることを描こうとも、ジェネレーションZからはリアルなんかどうでもいいじゃね。と反応が返ってきそうであり、PTAやノーランもやがてはすぐに死語的存在になるのではないか、と思えてきさえする。液状化する世界は子供に充ちている。
も、やはり、ブリトニーの音楽とミニモニのそれの基礎となるものが違うように、ブルースをベースにしている体感温度のアメリカンと、かぶく文化の日本人は、前者は人間というアイデンティティをはっきりさせて保持したいのだろう、そしてそうしたミームをもって生きているから、アヴェンジャーズにしてもなんにしても、超自然にしても神話にしてもヒトの方に引き寄せ同化させるけど、日本の方はヒトが不確定性あるものに入っていく。ホントにリアルなんかどうでもいいじゃね現象である。こうしたことを最近考えていたときに、これらのふたつを観れて、おもしろく感じられるのであった。どうだろう、こうした考え。こっちの思い込みもあるだろうけれど、少しは時代の傾向に触れているのではないかな。キャラクター、フカセの最後のセリフ、やはり日本人的なものなのかな。
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