ゴダールのパッションおもしろかった。
パッション
*情熱的であるがゆえに受難。
*労働と快感。
*運動 ムーヴ
*ジガヴェルトフ集団の余韻まだ残る時期における労働の言及と思え、それも次第とフィエイドアウトして愛という普遍性へとやがて代わるように思えるが、今世紀の10年におけるソシアリスムがあること考えれば、労働はゴダールにおいて常に変わることなく有るイシューなのだろうかとも思えてくる。
*リュミエールの工場の出口から始まるリュミエールなものへの考察、すなわち光を描くシネマへと言及され、労働現場における情熱と受難、光と影、生と闇、物語とフィクション(ノンフィクションではない)、それらは相対化されることなく、映像性そのものとしてのヒカリが表される。
*愛の対象としてヒカリを追う。それはこの作品では気狂いピエロらシクスティーズのテクストと同じように女性として表されるが、後にはそれはもっと普遍的な愛そのものへと代わる。それはドロンを起用したヌーヴェルヴァーグの後の、新ドイツ零年あたりからなのではなかろうか。90年代からのゴダールのヒカリはより普遍的な愛、ヒューマニズムとして顕れる。(全く普遍的でもないか。キリスト教的な意味での、それではある。)
*スピルバーグを批判するが、盟友トリュフォーが出ている未知との遭遇のヒカリにはゴダールはなにを見たのか。勝手に逃げろ/人生以降の商業映画復帰後のゴダール、ヒカリをさらに普遍的なものを追うかのものとして表しだしてゆく。そのエイティーズ、スピルバーグはちょっぴり社会派のヒューマニズムするカラーパープルや太陽の帝国を、ゴダール忌み嫌うエンタメとともに創作してゆく。過去の”いばしょ”ホームと未来の”いきがい”ドリームが出会う場所としてのヒカリが表されるスピルバーグに対して、ゴダールは現在しか捉え表さない。情熱的であるがゆえ受難するヒューマン。それがビーイング、現在進行形する。ヒカリを追う。ナインティーズ、フックにジュラシックパークとテーマパーク化さらに進行させるスピルバーグ、彼のシンドラーのリストもゴダールにとっては嘘のスペクタクルでしかないのだろう。ところで、ゴダールはヒトラーへの批判的言及はしたことあるのだろうか。チョビ髭をユーモラスに表すゲシュタルトの記憶はある。小さな兵隊はアルジェリア戦争という当時の現状への異議申し立てであり、新ドイツ零年はベルリンの壁崩壊後のドイツに対するものであろうし、むしろ親パレスチナのゴダールは反シオニズムであろうから、もちろんナチ賞賛はしないし反ナチスだろうにしても、現状を捉えることに精進してきているように思える。
*ビーチバムのコリン、パッパラパ―に夢見るアメリカンが表されるのか、カラックスやノエ、或いはゴダールのように、情熱的であるがゆえにパッションなヒューマンを訝しげ、そして愛するのかどっちだろうかが気になるところである。
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