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2018年10月06日23:24

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鬼婆

『鬼婆』
 コンビニの本棚に並んである写真週刊誌、通り過ぎるとき、その表紙をなにげにも眼に焼き付けるように飛び込んできてグラビアと題字にウォーッと驚かされるように、数多あるホームドラマでお母さん役していた乙羽信子がヌードになっていることに驚愕する。しかしながら、私の中三病(中二病よりはちょっと大人である)は、『豚と軍艦』からのファンであるゆえ吉村実子のヌードにフライデーやフラッシュを通り越しサンタフェの宮沢りえを見たときと同じ衝撃をガッツ―ンとおぼえるのであった。、、、そんなことはどうでもいい。焦点がブレてしまった。鬼婆にフォ―カスしなくっちゃ。フォーカスって2001年に廃刊したんだな、まだずっと店頭に並んでいるのかと思っていた。FOCUS、FRIDAY、FLASHの3Fがあった時代に3Mがいた。スリーマゾではない。宮沢りえ、観月ありさ、そして、、誰だっけ、、またもや、焦点がブレてしまった。さて、イナイイナイバー、もとい『鬼婆』である。
 アメリカではシンド―のテクストにおいて、『裸の島』などよりもこの作品の方が現在は広く認知されているんだな。林光の和風伝統的ドラミング、ハードバップしている。乙羽信子、なにか市原悦子を想起させるかのように、日本昔ばなししている。彼女の視点が物語りを動かす。彼女は昔から今までを永遠に生きる鬼婆。佐藤慶は必殺シリーズの仕置人らに成敗される悪人役においても、或いはオオシマのテクストにおいても、かなりに冷静沈着なワルばかりを演じているイメージであるので、シンド―における素直に人間本能をあるがままに放出する役に接すると、かなり新鮮に感じられる。不気味ではなくその素直さに、人間の不思議さを感じてしまうのである。吉村は『豚と軍艦』のときと同じように、素朴にして野性味あるエロスを放出する。ナチュラルなものが無防備に、あるがままにその美しさを表している。そして、彼女たちのそれが淫靡にインヴィテーションする。ヤミイチ戦後の混乱期、カストリ雑誌はその繁盛期を抜け、もはや戦後ではないこの時代、政治と出会う。官能は民のエナジーとしてある。いかなる民俗と同じように、社会の表層のした、その中身にはそうしたものが棲みついているのだ。穴が語るものは官能であり、佐藤慶がさかりづき狂いだすのに表されるように、オトコは突くことを欲し、乙羽と吉村がヒトを未知なるものに放り込みように、オンナはワレワレを闇に帰すのである。穴は闇という業を吐き出す。人間の鬼になる可能性が表されるとき、我々はその穴をカンジる。穴に潜む身近にありながらも触れてはならないもの。美醜という違い無きものがそこにあるように、我々は穴を感じる。鬼ではなく人間であるということ、なんの違いがあるのだろうか。

 ギラギラした作品であった。石井輝男がエログロナンセンスを表す遥か遠く昔から、イマヘイ、シンド―、ワカマツはエロを吐き出し描いている。そうした時代が昭和のこのときにあった。性の解放と人間性の取り戻しが叫ばれるとき、ネイチャーは映画というメディアにとてもフィットしたものと人々は感じいる。三人はネイチャーを追及しているけれど、シンド―に接する時、オオシマよりは全然泥臭さを感じたイマヘイですらインテリ臭さを感じさせるものとなり、オオシマに近いワカマツにも理屈っぽさを感じてしまう。シンド―は人間をより身近に感じさせる。シンド―表す反復性においてそのミニマルミュージックのようなナチュラルな生成、理不尽なる人間性なる政を確かに感じさせしめてくれる。まつりごとは人間臭く、その生理を放つ。


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