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2018年03月16日14:08

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サマリア


『サマリア』
 ギドクだしテーマ的にもなにか重いもの残るのかなと思っていたが、観終わりのこったもの、重いものではなく爽やかなものであった。ルグランやフランシスレイの60、70年代ヨーロッパ映画のようなメロディにのり、青空色した像の隣に座る彼女たちにピュワなもの失われない。現実的なものがそこに隠され見えていないのではなく、チョエンの笑顔もヨジンの悲しみも汚さに対する嫌悪も、それを失わせていないのである。女性の性があらわれる。
 第一部から第二部への転じは『悪い男』の修羅は慈愛を生むものと同じものを感じさせ、第三部のソナタ、『悪い男』で描かれたものを、そこでは描かれなかったメタに第三者の視点でさらに捉えていくようなものとなる。しかし観ていくと、そうしたメタな眼差しで捉えられていたものも、その眼差し自体がモラルの是でもインモラル批判なのでもなく、第一部から語られるものと同様に、そしてすべての出来事が重なり合うように、業というものの多楽章形式が成り立っていることみえてくる。
 そこにはアクションであり、ムーヴメントであること、映画である姿勢もまた表されている。父親のアクションがそれなのであり- ここに表されるそれはタブーの現前という極めて映画的なもの -、チョエンの行為は孤独を表すものであったり笑顔が悲しみ秘めたものであったりと観賞者それぞれによって応えがあらわれるものであり-映画的に反解釈なるリアクション -、ヨジンのチョエン、父親、そして男たちに対する反応はムーヴメントとして、その姿勢をはっきりとあらわしているのである。
 ムーヴする。ノートが表される。不可解なる行為はヒトを不安にさせたり怒りを誘発するが、根拠なるもの見えてくると、そのこと受け入れながら自身の内側に在るもの恥じてもくる。そしてそれとともに、晴れやかな気持ち持ち歩めえる。人としての旅は石を自らの手でどかしながら、『悪い男』を含めたギドクのテクストほとんど全てに表されるように、つづけて生きていかなければならないこと悟らせる。
 子供や動物を描いた映画には勝てないというが、父が乗ったクルマを追いかけるヨジンが運転するクルマの姿、グッとくる。無表情に不器用に、そして一途に追いかける姿、かつて幼少期に観た映画ではこのような姿に感動したのだと思い出されてくる。第三部の終盤における川岸を歩く父子の姿、どんなに互いに変化があってもなにも変わることなく在ること感動する。それはきっと現実世界のそれも同じなのだと思えるのである。



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