カーウァイとミンリャンのボックスを開く前に、予習的に張芸謀や侯孝賢を観ているが、新鮮に感じられども、飽きが来る前に本来の目的であるカーウァイとミンリャンの前衛的なスタイルを観なければならない。
思えば、家衛と明亮には家族社会、地域社会といったもの表されていたとしても、昏迷乱擾する個たちの姿や都市の混沌といったものが我々には強く現前するのであり、比すれば芸謀や孝賢にはより強く表される家族社会、地域社会に触れると、邦画に描かれるものも含めやはり東アジアは儒教的なものストロングにあるなとビシバシッと感じられてくる。
とはいえ、芸謀には、彼自身の歩みがあらわれているのか、放蕩というか、そうした社会にいても自由気ままな、そして気骨に生きる個の姿が濃くあるのであり、孝賢には、小津が好きなところが彼にはあるからだろうか、絆をノスタルジックに、或いは、どこまで行っても絆といったものに(縛られているというのではなく)追いかけられている個の姿がある。
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