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2017年11月26日23:01

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アメリカ映画の不安への序章とエコロジカルな終章

     


  80年代のハリウッドにおいて、スピルバーグやイーストウッドの活躍は言わずもがな、スピルバーグ派閥のゼメキス、コロンバス、ジョーダンテの台頭、ジョンランディスやロンハワードの躍進、そして活躍はまたリチャードドナー、バリーレヴィンソン、アイヴァンライトマン、ジョンマクティアナン、エイドリアンラインにおいてでもであり、彼らのエイティーズの活動はエキサイティング、ジョンヒューズとモリーリングウォルドの青春ものをものともせずにハリウッドの新しいバビロンを築きあげ王道を突き進み、そこにやがてロジャードナルドソン、フィリップノイスも参画してゆく。
  80年代から90年代のそうした時代に跨り、不安への序章としてのポスト進歩社会が表されゆく。リドリースコットだけではなく70年代末期には、ライトスタッフのフィリップカウフマンは『SF/ボディ・スナッチャー』(78)を描き、80〜90年代においては厭世観抱くアメリカの進歩と不安を描き出す。不安への序章、それはプログレス ソサイエティやテクニカル コミュニティが迎えるであろう未来の荒廃であり、進歩と不安はリドリースコットの『エイリアン』(79)『ブレードランナー』(82)、ジョージミラーのマッドマックスシリーズ、そこにおいてはMTV華やかし頃のティナターナーが『サンダードーム』(85)で都市社会の衰亡を高らかに謳いあげ、キャメロンの『ターミネーター』(84)、進化した『ターミネーター2』(91)、ヴァーホーベンの『ロボコップ』(87)と『トータル・リコール』(90)が進歩と不安をサイクロン。
  世紀の終末へ向けたアングスト、その無意識は無防備に且つ想像を渦巻かせ表される。しかし、90年代を迎えるときテクノロジーによって防備し、マイケルベイの登場と保守化のエキサイト。ピュアにピューリタン原理主義をグローバリゼーションで散種する。90年代終盤は個人主義としてのパトリオットであり、リドリースコットの『白い嵐』『G.I.ジェーン』『グラディエーター』、007のようにイギリスのナショナリズムには忠誠を誓うことはない、個人主義のキャメロンは『トゥルーライズ』に、ヴァーホーベンの『スターシップ・トゥルーパーズ』、不可視のものへと戦いを進めインビジブルする。
  闇の中で光りが00年代になるときに求められてくる。トワイライトのシリーズやアンダーワールドのシリーズが誕生するより遥か以前、シャマランは登場する。ノーランとアロノフスキーはシャマランと同世代であるが、シャマランが先にハリウッドに敷いたルール、或るムードを同時代的に共有する。スピリチュアルにして、啓蒙的にして、クリエイターがやがて現れるというムード。このムードは黙示録に読まれる破壊的なものとは違う。デヴィッドフィンチャー、或いはルーカスが全てを手掛けたスター・ウォーズ エピソード1〜3における黙示録のムードとは一線を画するものである。シャマラン- そしてそのムードをパートに受け継ぐノーランとアロノフスキー –には祝祭のなにかがあり、それはもちろん、庵野秀明のエヴァとラブ&ポップや岩井俊二のスワロウテイルやリリイシュシュといったネガティブに考えがちなジャポネーズはリバーズエッジ世紀末論とも違うものであり、そしてまた、そこから転じて存在として消化するゲーム的な祝祭、すなわちONE PIECEともBATTLE ROYALEとも違うものなのであり、そこには極めてアメリカ的なデザインがあるのである。
  選ばれし者も約束の土地もアメリカには現れることはない。フロンティアが求められる。デザインが希求されるのである。スピリチュアルなデザインは極めてアメリカ的なものである。クリエイターの意に沿い、運命を受け入れる。そして人というもの、それに反抗する。リベリオンは世の常ヒトの常。極めて人間性あるリアクション、そしてそこに生れるエモーションが表される。見果てぬ夢へのミッションがそこには表される。運命の場所で、約束の土地が耕される。啓蒙は道を指し示すのでもなく、人に選択を託すのでもない。過程に陽が灯されるのである。人々はそこで育むことを知る。ノーランとアロノフスキーが受け継ぐ育みにはまた、ケヴィンコスナーがイニシアティヴをとったムードも兼ね備われているのである。
  コスナーはメルギブソンのブレイブハートではない。コスナーは緑地を育み続けているのである。エコロジカルなものが『フィールド・オブ・ドリームス』、『ウォーターワールド』、『ポストマン』でハリウッドにひとつの傾向として創造されていたのだ。コスナーはアクターとして新しいゲーリークーパーという善人のイメージを生んだが、そこにはアメリカ乃至ハリウッドの現状において限界があったとしても、善人のイメージを生んだ以上に、彼が創造したものは現在から振り返って見てみればグレースすぎる恩寵としてある。育てることのメッセージが絶やされることなく今此処にある。
  エコロジーは闇に包まれた理性に光を灯す。スピリチュアルな緑地を育むために、啓蒙が再び取り戻される。脱中心化された主体が再び主体性を回復するのではなく、育たれる意思がそこに顕されるのである。育むこと、それはその意思と過程に在る。クリエイターの意に即し、人々がその場所に集う。そして、進歩ではなく安堵を求める。愛が生まれることを求める。クリエイトするのではなく、サヴァイブする。超越するのではなく、逸脱する。人々は闇の中で常に偉大なる知性と共にいる。そこに共約可能できる自由がある。理性は暗中模索する自由にあるのだ。イリュージョンという極めてアメリカ的なものが、荒廃の土地から取り戻されようとしている。




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