『息子』
この作品ほとんどパーフェクトに思えてしまった。少なくとも、そうした力強さがある。この作品、人が気付かずにいるものへの眼差し、それをソッと映し出す。対象にあるものは無意識にあるものなのではなく、我々が日常で見て聞き感じるもの。これはなにも、山田洋次の特許なのではなく、松竹の家族ドラマにも、邦画全体においても、存在するもの。この詫び寂びワサビ的な刺激、されど山田はそれをしっかりと捉えて離そうとはしない。ときにはしつこくなりかねないものですら、軽妙に外連味もって、その場に縮約させる。山田はそこが他とはちがう。古典噺的なものを映像化するのでもなく、そのショットにあるチョットしたアンサンブルを大事にするだけなのでもなく、人というものを描くこと捉えて離そうとはせず、彼ら人々がいるその場を噺にする。(そして我々観衆もまた、その場に生きる。) ルビッチタッチでもただの浪花節的人情劇でもないこと、儚い魂を描き出さんとすること、それは山田ならではであること、なんとも見えてくる。
存在の痕跡とはきっと、そういったものなのだろう。
和久井映見、人が気付かずに触れているラブをとても表している。素敵である。永瀬、都市であろうが田舎であろうが変わらぬ人というもの、とても朴訥に表している。末っ子は可愛く、早く安心させてもらいたいという気持ち、親は多くその気持ちを持っているのだろう、しかし、親と子との互いが考えに及ばないその距離間もまたある。しかし、家族にはそうしたディスタンスほんとにあるんでがんすか?『息子』は山田がその他のテクストでも描くように、それが埋められることを表している。ラストの幻想には、普遍性あるもの、それが郷愁であること表されるのだ。誰にも、何処にでもあるもの、それなんだべさ。
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