『シェルブールの雨傘』久しぶりに観る。ロシュフォールに比べてシェルブール、哀しいハナシだったから一度きりでもういいやとなったと思っていたけれど、さにあらず。この全編、歌がある続けることにヘトヘトになっていたからなのだと、過去の記憶を甦らせる。クロード=ミシェル・シェーンベルクとアラン・ブーブリルのチームのものだったら、舞台ゆえに視点をあちこちに動かし劇場空間に身体を委ねられるのだろうけれど、シェルブールにおいてはショットによって視点を常に定められるし、そこでエナジーが吸い上げられてしまう。もーヘロヘロ。素敵な作品、いい作品、素晴らしい、と、人によってそうした意見は多々あるはずであるこの作品。しかしながら私にとっては、とにかく、凄い作品である。もーヘロヘロ。
数多ある作品のなかからたまたまカンヌでグランプリなりを獲るんだろうなと思っていたけれど、ドゥミの『シェルブールの雨傘』もリヴェットの『美しき諍い女』も、それなりに存在理由があるのだと、その凄さあらためて感じるのココロである。
ルルーシュと同様に、イマ的でいえばドゥミのシェルブールもインスタ映えする感じだけれど、そのモード確かに確信犯であっても、表さんとするもの、引き裂かれる愛というトラジってよりも、その身近にありそうな個人的様相に潜在化されながらもの、 “国家”に対する問いがなされているのが、やはりお仏蘭西らしい。これは古びたイシューなのではなく、今なお、或いはさらにイマだからこそ意識化されるものである。ナウいね。カラフルな色彩もモードらしくあるけど、それはそうであっても、トリコロール以上の数の色彩、逆にディセンサスに人間の在り方を印象付けるものである。
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