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2017年08月31日19:26

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たそがれ清兵衛



『たそがれ清兵衛』
 日本人が忘れ去ったものが表される。それゆえ、現代日本人である私はこの作品のことがなにも分からないのである。、、、、、それを言っちゃおしまいよ。
 田中泯がキャストされた意味合いは気合いもった剣術殺陣に表されられるのではなく、その終盤に彼が表現するもの、即ち、時代が見えずに地獄だ、という舞いにそのセンスあらわされる。山田洋次は常に時代を捉える。時代に、たそがれが求められる。たそがれと揶揄されても、黄昏時はとても美しいものであること、主人公の姿を通して詠われるのである。
  清兵衛は何者か。ハマちゃん、かっちゃん、寅さん、健さんと同様に、その社会にいながらにして世捨て人の姿が表されど、むしろ逆に、その社会の方が世を捨てているのであり、主人公は常に世を請う人として恋され生きている。渡世人のように流れゆくもの、誰からも気付かれずにいる。しかしながら、そうした世を請うことは、寧ろ、針のむしろに生きる現代人にとってはフツーのことなのであり、それを分からずに社会は生かせられていること、ソッとこの作品は教えてくれる。フツーとは黄昏を愛すること。シンプルなストーリーに、シンプルなことが顕される。


『たそがれ清兵衛』P.S.
 山田は清兵衛の方にたつのだろうけれど、ドメスティックヴァイオレンスだけれどムシャクシャしているあの大杉漣や、或いは田中泯を非としてはみていない。清兵衛の平和イズムも、その礼節も、それはあっても、木棒には、かつての武士道乃至刀への想いある魂はない。清兵衛の言い訳に、田中泯の眼光が光る。田中泯が清兵衛から切られたかったというのは、あまりにもロマンスすぎる。彼はどうしても打ち取りたかった。そしてだ、時代を田中泯は受け入れることはできないが、山田洋次は清兵衛の悲劇性も描かんとする。現代の現代人のわだかまりと翻弄が、その時代を生きる人に表されている。力強い真田だから、あのファンタジーにしてラブロマンスは生まれたのだろう。時代劇三部作はこの作品が売れて、その流れ致し方なく売れ線のなか、山田の意に反してできたのかと錯覚していたが、真田にはない魅力、すなわち弱さ、それが表される永瀬正敏やキムタクに表される。彼らという役者はファッションという以上に、不器用さ表さんとできることからも、作品の敢行がなされたように思えてくるのである。山田は弱さだけを描きたかったわけではないけれど、彼が表したいもののなかにはもののみごとにそれが表現されている。


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