mixiユーザー(id:2566286)

2017年08月28日13:27

143 view

モン・パリ

『モン・パリ』
 マストロヤンニが出ていてもフェリーニのようでフェリーニではなく、ドヌーヴが出ていてもブニュエルのようでブニュエルではなく、イタリア式ではないフランス式艶笑コメディ。ヘンテコ☆ファンタジー。
 ラストは松田優作的に、なんじゃーこりゃ?な落とし方である。なんじゃーこりゃ?と雄叫びしても、このラストしばらく考えるに、これがフレンチなのだと思えるものと理解できてくる。同じラテンでもフェリーニやブニュエルの途方もないヘンでもない、デカルト的合理性に支えられたフランスさ、そこらヘンなのである。そして、このフランス的な普遍なヘン、ドゥミだけではなく、リヴェットにもヴァルダにも在るものだと、(フェリーニの)マストロヤンニと(ブニュエルの)ドヌーブがキャストされたこの作品を通じて如実に伝わってくる。

  ドゥミの夢の感覚、これなんだ。

 ドゥミはいつも夢を待つ人々を描く。夢を待つ人々はつまるところ、夢を持つ人々なのであり、だからこそ、アイリスのような丸の中にいる宇宙飛行士がお腹の中の胎児のように表されても、マンネリ化した市井になんとなく生きる感覚もつ夫婦が表されても、ミレイユ・マチューが歌う変わりゆく巴里にマストロヤンニが青い顔をあらわしても、ダンナが身籠ったこと知ってドヌーヴが大慌てしても、マストロヤンニが“未来の男性像”としてアイドルになっても、彼の友人が舞台女優とデキても、ネイチャー誌に出鱈目が毅然と公然と発表されても、ドヌーヴがマストロヤンニのプロポーズを待っていても、そんなことあんなこと、ハプニングは宝くじのようなもの、そのひとときの夢を味わい、哀しみも愉しみも酸いも甘いも、人生はなんて素晴らしいものなんだろう、そのことそのものが、ドゥミには表されるのである。
  と同時に、砂糖菓子のように甘くコーティングされたなかに反骨精神が隠されていると言われるドゥミだから、美学=政治的に、言わんとすることも全うされる。ラストはお腹の中は空だと、そのカラダ言われるわけだけれど、未来の男性像に表される身籠ったアストロノートは、ミレイユ・マチューが歌う歌詞のように、その虚無は時代の風に靡かせるものとしても表してくれる。こうしたセンスもまた、ドゥミのテクストに表されるものなのである。

  フォト フォト
      フォト
フォト  フォト

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年08月>
日 月 火 水 木 金 土
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の日記

もっと見る