『冷血』
かつてこの原作を読んだあとに、メイラーの『裸者と死者』へと進もうとプランしたけど、この小説だけでいっぱいいっぱいであった。ブルックスが創ったものを観ようというより、この小説がどう映画化されているのが気になったから観たのだけれど、最初観たときは失望であった。
今回、再び観る。カポーティの原作読んだときの、彼の個人的な心情が犯人に写し出されていたセンスや淡々と進むルポルタージュ形式の印象と違う。スタイリッシュな導入部であり、娯楽性がとても強く表わされている。国民=オーディエンスに向けたメッセージは社会派ブルックスらしい。ペリーがトイレの鏡で見る彼自身、そして話のなかに出てくるアラスカで不遇のままであった父にアメリカンドリームが表わされる。アメリカがメッセージされる。
登場するときの音楽の使い方がホーム的なんだけど、やや病的に描かれる一家にもまたアメリカが表わされる。しかしそれが、あるがままの普遍的なホームなのかもしれない。
ペリーとディックが一家の家に着くショットから、その後は彼らの逃亡の経緯へと飛ぶが、終盤には再び彼らが一家の家に着くショットが表わされ、そこからその後の一家が被る惨殺が表わされる。終盤にそれを持ってくることにより、一家が殺されるときの緊張とペリーとディックが死刑執行を待つときの緊張の同位性が表わされる。カポーティが言わんとするものとは違い、社会派的なメッセージは当時のハリウッドらしさが表わされるが、ラストのぶらんぶらんと響く音に集約されるものは、結局のところカポーティが描くアメリカの夢のコワさとお洒落と繋がるものがある(パーリーアニマルであるカポーティはムーンリヴァーにオシャレなのでもある)。
リチャードブルックスは自らをまずライターであると言うが、その脚色されたもの、原作の解体とグリッドの抽出と再構築は、ロックンロールの黎明期にファッション求める若人にも魅了されるスタイルであり、それは『暴力教室』『エルマー・ガントリー』『プロフェッショナル』にも表されるものであるが、ノンフィクションノヴェルの映像への翻り的なものもあろうが、この『冷血』にはシャーリークラークやカサヴェテスの先駆的なもの、ドキュメンタリータッチな先取りが表わされており、それもまたスタイリッシュである。
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