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2015年11月29日18:38

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目のなかに見える光-スピルバーグに表される人と人との結びつきを形成する4つの徴の考察 -


かなり昔に書いた『目のなかに見える光-スピルバーグに表される人と人との結びつきを形成する4つの徴の考察 -』。フォード、キャプラ、スピルバーグの考察。かつてとは違ってきている私自身であるが、かつての私自身が書いたものを再読。そして、今を、現代を知っていきたし。




目のなかに見える光-スピルバーグに表される人と人との結びつきを形成する4つの徴の考察 -
                             
0. はじめに
  70年代以降から現在までハリウッド映画を牽引する映画監督スティーヴン・スピルバーグは、『ジョーズ』、『未知との遭遇』、『1941』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、『E.T.』、『太陽の帝国』、『ジュラシック・パーク』、『シンドラーのリスト』、『アミスタッド』、『ターミナル』、『ミュンヘン』、『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』、『戦火の馬』に表されるように様々なジャンルの作品をつくってきた。彼は様々なジャンルを表しながらも、そこには一貫して変わることなく描かれるものがある。それは家族的な結びつきだ。スピルバーグが表す家族的な結びつきとは、いわゆる血縁関係においてのそれを指すだけではなく、もっと広い範囲での、国家のような法的拘束も超えた互いの助け合いや思い遣りによってもたらされる人と人との結びつきのことを言うのである。この結びつきのある共同体は最初小さなものとして表されるが、やがて人々の間にある垣根を取り払い大きな拡がりを持つ共同体になる。スピルバーグが描く家族的な結びつきは、我々の誠実さが勇気を生み相手へ向けた思い遣りが信頼を育むことができることを知らしてくれる。そして、その “知る”意味 - SENCE – には結びつきへの希求が我々のなかに確かに在ることが指し示されるのである。共同体社会の問題を顧みると同時に大きな拡がりがある結びつきを求める我々自身の姿が、スピルバーグの“ムーヴィー”に表される。
  スティーヴン・スピルバーグは自身のことを「80年代よりも40年代に近い人間だ」と1980年代の終わりに述べているが、その言葉が指し示すように彼の作品には戦前から戦後にかけて活躍するポピュラー映画の監督、ジョン・フォードとフランク・キャプラが描いた家族的な結びつきが受け継がれ表される。ジョン・フォードは西部劇をはじめ文芸作品、戦争映画、社会ドラマと様々なジャンルを通してヒューマニズムを讃えた。フォードのヒューマニズムは初期のハリー・ケリー主演による一連のサイレント西部劇から、文明世界を超えた場所で生まれるものとして表され、その場所で人々が互いに思い遣る姿が表される。フランク・キャプラは権力的であり物質主義的な体制に対抗する民衆の息衝きを謳うポピュリスト・コメディを描いた。彼はハリー・ラングトン主演によるサイレント・コメディの時代から、無垢で子供のような主人公が都市等ののっぴきならない空間で翻弄されながらもそれを克服し誠実さを示す姿を表した。民衆の思い遣りと誠実さをフォードとキャプラのムーヴィーは、特定の世界に限定されることのない人々の結びつき生むものとして表し大衆的な人気を博したのである。
  ムーヴィーが人々の結びつきの大きな拡がりとして、スクリーンに映し出される。ムーヴィー、それには経済的な商品としての映画の意味が表されると同時に、或いはそれ以上に、大衆に身近なテーマを登場人物たちの所作や台詞、背景を通して表すことによって、大衆の心を動かす、すなわちムーヴさせるといった意味が表される。我々は劇場空間、銀幕に写る映像を囲み共にそこで泣き笑い感動してきた。劇場空間にはムーヴィーに表されることと同様に、垣根を取り払い大きな拡がりを持つ結びつきが生まれる。ニッケル・オデオン以来、我々大衆にとって身近に求められる大きなテーマの1つが家族的な結びつきであり、フォードとキャプラは家族的な結びつきを顕すことによって心を動かす灯ヒカリを我々の眼差しに届けてくれたのである。
  スピルバーグのムーヴィーにフォードとキャプラが生んだ“真心”が継承される。相手を受け入れ歩み寄るとき、いま此処に、目のなかに見える光が顕れる。スピルバーグにはフォードのように、かつてあった共同体の憧憬を見つめる主人公が表される。憧憬には主人公を暖かく迎え入れ思い遣りをあらわす人々が表されるのであり、主人公はかつてあったような共同体の姿をいま此処に求める。やがて主人公は人々とともに、より大きな人々の結びつきに目を向けることになる。憧憬として見ていた家族的な結びつきは主人公自身の救心力によって、より大きな輪となり確かなものとして現れる。そしてスピルバーグには、キャプラが描く子供のような主人公が表される。子供のような主人公が見つめる未来に、彼/彼女が求める理想が映し出される。スモールタウンから街にやって来た主人公は独立心が旺盛であり、人と人との結びつきを尊ぶ誠実さを指し示す。人々は主人公の救心力によって、スモールタウンで育まれる良心を思い出す。そのとき、新たなる大きな結びつきがいま此処に生まれるのである。フォードとキャプラを継承するスピルバーグの主人公は、過去への憧憬を抱き子供のように未来を見つめながらも、いま此処にある大きな拡がりがある結びつきを知る。主人公は同時に、結びつきを生み出し秩序立てる彼/彼女の能力を人々の眼差しを通して知ることができる。
  この論考は家族的な結びつきが如何に形成されるかをスピルバーグのムーヴィーに眺める試みである。我々は今からスピルバーグがフォードとキャプラから継承する四つの特色を、彼らのテクストからそれぞれ3つの作品を選び、その物語展開を見ていきながら結びつきが育まれる場とは何かを考察し探究する。物語展開に表される4つの特色には、結びつきを探し求める主人公や人々の感情変化の起因が表される。その4つの徴が紡ぎ合うとき、家族的な結びつきが形成されると同時に、我々の眼差しを忘れかけ見過ごしてしまっている結びつきに志向させる。紡ぎ合う4つの徴、1つ目には主人公が直面する共同体の問題が表される。2つ目の徴にはそうした状況で主人公が持つ視点が表される。そして3つ目の徴には人々と結びつきを探し求めるときに育まれる主人公の潜在能力が表され、最後は大きな拡がりがある結びつきが生まれるモメントが表される。これら4つの感情の徴を通して、壊れた結びつきを克服することができる主人公や人々が表されるのである。徴が紡ぐものは目のなかに見える光であり、我々の眼差しは大きな拡がりに向けた希求を捉えると同時に結びつきに向けて思考する。大きな拡がりがある結びつきが何であるかを知るとき、そこには我々一人ひとりの持つ可能性が指し示される。

1.主人公が直面する共同体社会の問題
  まず、最初の徴が主人公の直面する問題である。スピルバーグが表す主人公が直面する問題、それは他者に思い遣りを持てずに起こるコミュニケーションの欠如であり、その社会の父性的存在ないしリーダー的存在の失墜とそれによってもたらされる社会の欺瞞である。問題は映画の冒頭から起こっている。『未知との遭遇』(Close Encounters of the Third Kind,1977)の主人公ロイ・ニアリーが登場するシークエンス、彼はアニメーション映画「ピノキオ」を観に行くことを家族に提案するが、家族は商業主義的テーマパークに行くことを要求する。ロイの後景では息子のトビーが人形をベビーベッドに叩きつけている。そしてその後のロイが未確認飛行物体と出会うシークエンスにおいて、彼は「星に願いを」持ちたくても彼と飛行物体の間には無言の時間が過ぎ去る。このシークエンスには神秘性が表されるだけではなく、不安の雰囲気も表されている。家族の反目、或いは飛行物体と遭遇するときに生まれる距離感ある不安に、他者に思い遣りを持てずに起こるコミュニケーションの欠如が表されるのだ。そしてこれらのシークエンスには同時に、その社会の父性的存在の失墜とそれによってもたらされる社会の欺瞞が表される。ロイが登場する冒頭のシークエンスにおいて、テーマパークに表象される物質主義に傾くロイの家族や、家族と誠実に向き合うことができない主人公の姿が表されている。物質主義に陥り誠実さを忘れかけている人々は結びつきを無視する態度をとる。彼らは相手を受け入れることも相手に歩み寄ることもしない。彼らがとる思い遣りや誠実さが欠いた態度は、その後に表される暗躍するアメリカが示すものと同じものである。主人公が直面する壊れた結びつきは、現代社会に無意識に浸蝕した問題として我々に提示される。結びつきが壊れた共同体社会は『E.T.』(E.T. The Extra Terrestrial,1982)の冒頭でE.T.たちを追いかける、姿をはっきりと現さない人間たちと父親の不在で落ち込むエリオットの家族に、あるいは『シンドラーのリスト』(Schindler's List, 1993)におけるユダヤ人たちがゲットーに送り込まれるために名前が記載されるナチスのリスト、そしてクラクフを治めるナチスや戦争による特需景気に乗ろうとする主人公自身に表される。思い遣りと誠実さの欠如は人々の結びつきを壊すのである。
  スピルバーグに人々の結びつきが壊れた共同体社会が表される。問題の提示、その表現がフォードとキャプラから継承される。コミュニケーションの欠如がフォードに表され、父性的存在の失墜と誠実さの欠如がもたらす社会の欺瞞がキャプラに表される。フォードとキャプラにおいてもまた、問題は映画の冒頭から表される。フォードの『捜索者』(The Searchers, 1956)において、南部連合軍に拘束されていた主人公イーサン・エドワーズの帰還を通して、アメリカ合衆国の分裂が表される。『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)の大恐慌の時代、主人公トム・ジョードと彼に怯えるトラック運転手の間に流れる無言の時間に、そして『荒野の決闘』(My Darling Clementine, 1946)の西に向かうアープ兄弟と彼らを遠くから見るクラントン一家との意思疎通のない会話にコミュニケーションの欠如が表される。キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(It's a Wonderful Life, 1946)の今から死のうとする主人公ジョージ・ベイリーが飛び込む歓楽街とそこを治める守銭奴ポッターに、『オペラハット』(Mr. Deeds Goes to Town, 1936)のマーティン・テンプルの事故死と彼の遺産を狙う親族や都会の詩人たちが道楽で楽しむ高踏芸術に、そして『スミス都へ行く』(Mr. Smith Goes to Washington, 1939)の主人公ジェフ・スミスを傀儡としてワシントンに送り込むテイラーや上院議員ペインの策略に、父性的存在の失墜と誠実であることを忘れた社会の欺瞞が表さる。
  人々の結びつきが壊れた共同体社会は映画の冒頭から、いま此処に存在している。壊れた結びつきはフォードにおいて思い遣りの欠如によってもたらされ、キャプラにおいてその社会の父性的存在の欠如、そして誠実さを無くした人々による結びつきを無視する態度によってもたらされている。相手を受け入れることも相手に歩み寄ることも出来ない社会が、いま此処に、スピルバーグに- そしてフォードとキャプラに –表される。それは現代社会に無意識に浸蝕した問題として我々に問われている。共同体社会に普遍的に在るこの問題は、スピルバーグによっていま此処に生きる我々の眼差しに届けられている。

2.主人公が問題に直面するときに持つ視点
  誠実さや思い遣りの欠如、そして父性的存在の失墜という壊れた結びつきの問題がスピルバーグに提示されるとき、主人公は或る視点を持つこととなる。その視点とは過去の憧憬を見つめると同時に未来への眼差しを持つということである。主人公は過去の憧憬に人と人との結びつきがある“いばしょ”を求めると同時に未来に向けた眼差しを通して結びつき育む“いきがい”を見つけようとする。彼/彼女はみつけようとする、しかしながら、過去の憧憬を見つめると同時に未来を見つめる眼差しはいま此処にはない曖昧なものしか見つめていない。過去や未来といった現在とは違った時間に “いばしょ”と“いきがい”を探し求める主人公は人々と同様、いま此処においてどのぐらい結びつきを欲しているのかを、本当のところ自覚できてはいないのである。思い遣りと誠実さを忘れかけている主人公と人々は“いばしょ”と“いきがい”が結びつくことを希求しながらも、盲目であることしかできない。結びつきが壊れた社会で我々は、主人公の見るという行為そのものに同一化する。コミュニケーションの欠如と社会の欺瞞は主人公自身によってももたらされているのであり、ここで作品ないし主人公に同一化する我々はわれわれが生きる現代社会を内省するように託されるだろう。特定の慣習にとらわれる文明社会、或いは金銭欲や争いごとを増幅させかねない物質主義が思い遣りや誠実さといった精神性を忘れさせることが、スピルバーグに描かれる。しかし文明世界や物質主義を批判すること以上に、より本質的に、思い遣りと誠実さの欠如そのものが人々の結びつきが壊れたそうした社会を生み出すという論点がスピルバーグでは志向される。“真心”を忘れているかもしれない我々自身が、壊れた結びつきを生んでいる可能性あることを、そこで問われている。
  “いばしょ”として求められる過去の憧憬が、フォードから継承される。フォードの主人公は過去の憧憬に“いばしょ”を見つめる。"The American Cinema"において著者アンドリュー・サリスは、フォードの「過去の視覚的表現は、現在よりも、そして未来よりも、記憶のなかで、暗闇のなかで光って見える」と述べる。憧憬は確かにかつてあったものに対する憧憬であると同時に、そこにあるべきものとしての願望として表されるのである。憧憬には結びつき、そしてそれを生む思い遣りや愛、良心が顕される。人々は思い遣りをもって相手を受け入れる。しかしながら、憧憬はいま此処にはない曖昧なものであり、それだけを見つめる主人公はまだ結びつきが如何なるものかを知らない。彼/彼女は結びつきを理解してはいないし、また彼/彼女自身と同族だと思うことができない他者に対して受け入れを許すことができない。主人公は人と人との結びつきが在る“いばしょ”を見つけることができないのである。『捜索者』の過去の憧憬が、イーサンをポーチで出迎えるマーサに表される。しかし、マーサの娘デビーを探す過程、チェロキー族との混血であるマーティンに「おじさん」と呼ばせないイーサンには結びつきを知ることがない主人公の姿が表される。『怒りの葡萄』の過去の憧憬は戻ってきたトムを迎え入れる家族、そして我が家から離れるときの鏡に映る、イヤリングを耳元に近づけ涙を流す彼の母親に表される。しかしながら、人を殺あやめ服役していたトムはまだ、「西を見てみたい」と言うケーシーが求めるものを理解できない。『荒野の決闘』の過去の憧憬は、アープ兄弟が目指していた故郷、そして兄たちを想いペンダントを握りしめ祈った末弟ジェームズの死に表される。そして、酔っぱらったインディアンを町から放り出す野蛮なワイアット・アープには結びつきをまだ知ることがない主人公の姿が表される。
  “いきがい”を求める未来への眼差しがキャプラから継承される。キャプラのスモールタウンに住む主人公は新しい場所での理想を夢見る。理想は主人公の見えないものを見ようとする希求として我々に提示される。理想を夢見る主人公は独立心旺盛だ。しかし、理想を夢見る彼/彼女にはまるで子供のような姿もまた表される。子供は興味持つものにすぐに飛び込む。子供は想像が好きだ。子供はなによりも人と人との結びつきを大切にする。しかしながら、主人公が“いきがい”として見る結びつきは、子供が見る夢のようないま此処にはない曖昧なものでしかない。主人公が夢見る都会は結びつきを忘れかけおり、主人公はそのことを気付かない。子供は都会の大人に騙されるのであり、都会は冒頭から表されるまま不条理な壊れた結びつきの空間で在り続けているのである。『素晴らしき哉、人生!』において、ジョージはいつかスモールタウンから出て世界を見て回りたいと願っている。しかし彼はスモールタウンが都会の腐敗を蔓延させるポッタースヴィルになる可能性があることを知らない。やがて欺瞞蔓延る共同体を知る主人公は、この不条理な空間で翻弄されることとなる。『オペラハット』において、マンドレイク・フォールスで弁護士ジュン・シーダーが帰った後に主人公ロングフェロウ・ディーズはまるで今から行く都会を見るかのように宙を見つめる。しかし、彼は都会に金を無駄遣いする人々がいることも彼自身がそうなることもまだ知らない。『スミス都へ行く』において、ワシントンに向かう汽車でペインに理想を喋り続けるジェフは、傀儡として首都ワシントンに連れて行かれることを知らない。
  いま此処に、思い遣りや誠実さを忘れかけ結びつきが壊れた社会が表されると同時に、真心を忘れかけた主人公が表される。国内が分裂する戦争をおこした合衆国やインディアンや町の人々を堕落させる文明社会で、思い遣りを忘れかけているフォードの主人公が表される。都会に住むことになるキャプラの主人公はそこに住む人々と同様に誠実さや純粋さを忘れかけている。主人公は“いばしょ”を求めても受け入れる術を知らない。主人公は“いきがい”を求めても、それに歩み寄ることが出来ない。主人公もまたその社会の人々と同様に、結びつきが壊れた社会を生み出しているのである。
  過去の憧憬に“いばしょ”を求め“いきがい”ある未来への眼差しを持つ主人公が、スピルバーグに受け継がれ表される。主人公は“いばしょ”と“いきがい”に、思い遣りと誠実さが生み出す家族的な結びつきを求める。しかし、彼/彼女もまたフォードとキャプラの主人公と同様に、 “いばしょ”と“いきがい”がどういったものかをはっきりと捉えることができない。主人公は過去の憧憬に“いばしょ”を求め未来へ向けた眼差しを通して“いきがい”を見つけようとするが、“いばしょ”に求められる過去の憧憬も未来へ向けた眼差しが見る“いきがい”もいま此処にあるものではないのである。相手を受け入れることが出来る場所も歩み寄ることが出来る対象もいま此処にはないが、曖昧なものを見つめる主人公はその社会の壊れた結びつきにも気付かずにいる。それは彼/彼女自身もまた思い遣りと誠実さを忘れかけているから起こるのである。『未知との遭遇』において、「ピノキオ」に過去の憧憬が表され、未知の飛行物体に未来への眼差しが表される。「ピノキオ」を観たいロイと商業主義的テーマパークに行くことを主張する家族が反目するシークエンス、「ピノキオ」に主人公がいま此処に求めたい誠実さや思い遣りが表される。しかし、彼が憧憬にみるものはいま此処にないものでしかない。コミュニケーションをとれないロイは、彼の家族と同様に思い遣ることや誠実であることを忘れている。ロイは実体の掴めない光る未知の飛行物体を追う。過去の憧憬と未来への眼差しが見つめるものが重ね合わせられるこの未知の物体を追う過程で、ロイは脆く崩れやすい彼の家族社会や国家の欺瞞に翻弄される。『E.T.』において、E.T.が見る飛び去る宇宙船に過去の憧憬が表され、宇宙船の飛び去った後に眼下に広がる郊外住宅街の光の海に、未来への眼差しが見るものが表される。E.T.が降りていく眼下のこの郊外住宅街には、父親がいた過去を憧憬化するエリオットがいる。しかし、このテクストに現れることない父親は飛び去った宇宙船同様に、いま此処にはないものでしかない。その後のE.T.が「ホーム」と言って指差す方向に向かう過程で、主人公たちは欺瞞なる共同体に翻弄される。欺瞞の共同体社会を生むものは秘密裏にE.T.を探す国家だけを指すのではなく、父親不在のエリオットの家族社会にも表されるのでもある。『シンドラーのリスト』において、未来への眼差しはシンドラーが一攫千金を夢見るクラクフに表される。過去の憧憬が冒頭の色づく安息日に表される。冒頭の安息日の蝋燭の火が消え去った後に表されるモノクロのクラクフでは、ユダヤ人たちの結びつきは既に引き裂かれている。オスカーは浮気したことで妻と別居することになる。オスカーはクラクフに、“いばしょ”と“いきがい”を見出すことができない。
  主人公は過去の憧憬に“いばしょ”を求め“いきがい”ある未来への眼差しを持つが、それらははっきりと捉えられない曖昧なものでしかない。相手を受け入れることが出来る場所も歩み寄ることが出来る対象もその社会にはない。そして、曖昧なものはその社会だけではなく主人公もまた思い遣りや誠実さを忘れかけているから表される。社会がいかなる状況であるかを気付かずにいる主人公、そして自身がいかなる者であるかを知らない彼/彼女自身の姿がそこに表されるのである。曖昧なものを見つめる主人公は結びつきが壊れた不条理な空間で翻弄される。しかしながら、スピルバーグ、そしてフォードとキャプラもこの捉えられない曖昧なものを見る眼差しを否定的に表すわけではないのだ。主人公の心の奥底にいま輝く家族的な結びつきは、主人公の記憶に生き続け未来に向けて見る夢として結びつきの再生への原動力となる。“いばしょ”として求められる過去の憧憬と“いきがい”を見つめようとする未来への眼差しに可能性が表される。

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