★『1900年』めも ベルトルッチ
*馬小屋で死ぬ祖父と父親に比し、現代に生きる主人公はサイエンスに死す。
*ラウラベッティのキャストは、パゾリーニへのオマージュとソドムの引用的なとこあり。
*アーダはほとんど不思議ちゃんモード。彼女は自己分裂した近代に合った女神、というよりは、自己分裂させる近代に抗う女神であろう。彼女は近代に生きるにはあまりにも繊細すぎるのであり、だから盲目にならざるえない狂人となる。近代は(家族)社会を尊ばないと同時にそうした社会に恵まれないトポスであり、彼女はそこから逃避するしかなかったのである。彼女は狂気の時代からどこかに抜け出す。
*暗殺の森ではエロくともオツムテンテンなブルジョワだったステファニアサンドレッリは、このテクストでは社会主義のミューズ。しかし、時代に翻弄される家庭人といったところでは暗殺の森の彼女と同じなのである。また、暗殺の森からの逃避を出来なかったドミニクサンダはこのテクストでは逃避することができるのであり、彼女が一番の幸せ者なのかもしれない。
*自己分裂の悩める民はデニーロとドパルデューである。彼らに対し、土地に根付いている農民たちは大胆であり寛容であり、生そのものを表わす。このテクストの主役はメインの四人なのではなく、オープニングタイトルの絵画に表わされるように、彼ら民なのである。
*同じ70年代のゴダールの『万事快調』もまた、主人公たちは都市社会に生きる民である。メインのふたり、すなわち広告に生きざるえない映画人とチンポを掲げるフェミニンなジャーナリストは民であると同時にフィルターを通す存在として機能する。
*同じ70年代のパゾリーニの『ソドムの市』はメインの上層イデオロギー的な四人だけなのではなく、皆にアンサンブルが表わされるのであり、お互いにキャッチボールし上層し下層するイデオロギーの内的な動きそのものが表わされる。「関係性」が此処で表わされる全てであるのだ。
*これらの大河ドラマはトラウマのドラマであり、ここには理想に生きるレットバトラーもスカーレットオハラも、理想と詩に繊細に生きるドクトルジバゴもラーラもいない。逞しい民はかつてと同じようにこの地に存在するのだが、メインである人々はとても病んでいる。鼻からギューニューだ。
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