mixiユーザー(id:2566286)

2015年10月03日08:23

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ヒグマ春夫「映像パラダイムシフトVol.70 イメージを読みとる」



先日(2015年9月30日)のヒグマ春夫「映像パラダイムシフトVol.70 イメージを読みとる」、素敵でした。
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感想文です。
  作者、行為者、受容者としてのヒグマ春夫、そして我々が劇場空間にいる。持たれ映し出される大きな紙がうごめく。紙は切られた身体に巻かれ、そして床に置かれる。寝そべる。ふたつのディスプレイと奥景のスクリーンは身体を現前させる。我々がその身体を捉える時と同時に、身体は三つの面に捕らわれられる。
  表わされる。絵具によっていま綴られた赤と青の線、それを踏んでいくヒグマの足、一方のディスプレイに残された赤の線は記録と残り、そこに在り、一方の青は足に踏まれていく。同時に露わとなるもの、赤が残る面と青が踏まれる面。面と私たちがいる空間。作者、行為者、受容者としての我々が劇場空間にいる。
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   ベタであるが「痕跡と表現」、そして「供儀」を感じる。付け加え、公演後のヒグマ春夫の監視カメラの使用の説明を聞き、私は現実とは恣意的な認識の形成される“現実”として在ることを言ってるのだと受け取ったのだけれど、そこに「痕跡と表現」と「供儀」に付け加え、「メディア」も感じる。人間の拡張は負の面を遺している。
  負の面があるから、その反対もあるのであり、感じ考える面も生まれる。監視カメラ三台によって映し出されるディスプレイないしスクリーンの映像、それらには身体が表立って現前し、それは図の生々しくある全面であり、まわりの地は暗いなかにあるばかりに見えるのだけれど、まわりを見渡せば、我々がいる劇場空間には図も地もない現実が横たわっているのであり、我々は「作品」にいる。そのコンテクスト、シャッター音によって切り取られる時空間を通じて、作品/テクストないしその場もまた「イメージは“現実”として認識されるのか」と感じたりもするのであった。
  現実が恣意的な認識の形成される“現実”として在ることにより、コトバの表出とはなにか、もののあわれ〜Mono No Aware のAware は Awareness〜とはなにか、を同時にその場で印象する。しかしながら、それはその劇場空間を含んだこの社会の出来事を感じ考えさせられるものであり、それはそれと別にしてその劇場での時空間、ただただ、シンプルに研ぎすまされた作品としての悦がある。その場に快感する。作者、行為者、受容者としての出来事が劇場空間にもまた在るのである。その後、みなで呑み屋に行く。ヒトはその「場」をはなれ、エクステンションする、Passion。


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