☆『家族ゲーム』(森田芳光 1983)覚え書き
*購入したので観る。1年か2年ぐらい前に観たときは(回数的にはションベンライダーともども2回以上を軽く超えるぐらいは観ている)いびつでダークな印象だったのだけれど、今回は違ってもっと爽やかな青春映画な感覚。いじめもまた青春の思い出であろう。それも含め学校のシーンはそんなにイヤな感じは残らなかった。 観る度に違った印象を持たせるのはひょっとしたら本作品の魅力の一つなのかもしれない。
*確かエスタブリッシュ・ショットだっけ、音をたてて食事をするクロースショットが連続するが、特に、兄が食べるめざしのカリカリという音、後に出てくる園子温や庵野秀明、それに岩井俊二が描くミレニアムへ向かうビョーキの世界の前哨戦みたいなセンスを表している。本作では学歴社会とそれに支配されてしまう家族がビョーキなのだけれど、数多ある社会イシューがもたらしビョーキ化するストレス現代社会の前兆がそこには在るかのようである(註1)。
*松田優作が乗る船が進む海は大林亘彦が描く尾道の海とは違い、やはりストレス社会の海である。森田はそうした社会をアイロニカルに表す。大林亘彦が表す素直な人々と違って、主人公の少年はその社会をアイロニカルに映し出す。都会の雑草は強い。彼はいじめを受けてもへこまず、それに受けて立つ。それにズルさもあるからそこに意外と人間味を見いだせる。いくぶんブラック・コメディであるが、それでも温かみはある。落語が好きな森田は黒い笑いを描きながらも、そこに人間味をおおらかに彩らせるのが妙技。それに、これまでそんなに印象が残らなかったけれど、今回は宮川一朗太が上手いなと感じるのである。松田優作との間合いは本作のキーではあろう。
*森田芳光のテクストではストラクチャー的に、三段法 或いは、3つのパートを表すメソッドが表され、三つ互いになんらか侵食する形で稼働されるけれど、家族ゲームでは、主人公が受けるいじめ、主人公が友人をやっつける、そして主人公の自立、へのリニアーな展開。でも全体的には『の・ようなもの』と同じように、いくつものエピソードがある形で三段法がはっきりした形で表されてはいない。おまけに、三段法で表されても主人公の嫌な性格はそのまんまであり、勉強頑張って成績よくなるけれど、成績があがればそれをおもしろくないと思う奴がいるからですよ、と松田優作家庭教師先生に告げたりする。おもしろくないと思う奴とは次のシークエンスに出てくる優秀な高校に行って親から認められている兄であり、彼をいじめる幼馴染の同級生‐成績を落とすべくエロ本を玄関に置いておいたりする‐であろう。いわば、大林が描く尾道の清さや清々しくも甘酸っぱい青春像なぞみじんもなく、都会のドライさやこれからやってくるビョーキの前兆を大盤振る舞いに主人公の少年は表しているのである。こうしたところをユーモラスに描いてみせる軽チャーの寵児が森田なのである(後の『黒い家』は森田にとっては心理ホラーなのではなくブラックコメディなのであろう)。森田芳光はイエ制度から抜け出している自由人であり、夕やけニャンニャンやトゥナイト2と同族なのである。
*自由人はもはや”戦後”も”高度成長期”も終わって安定症状期なのである。症状は重くはないが、安定期であるがゆえに不安やクルクルパーは増幅し安定した形で社会にある。でもまだ、ユーモアをもって。。。そんな愉快な不安は意外にも、でもなんでもなくて当たり前に戸川純に表象されている。
*最終盤の道場の兄は日の丸を背景にして、これから日本を背負う無機質を表象するのか。高校に上がっても少年は相変わらず自身の世界にひきこもっているけれど、これから現れるヲタクを予感させる。ストレス社会にじかに接する兄弟と母親は、父親不在のマンションでつかの間の休息を過ごす、ということなのかな、最終盤のあそこ。でも、相変わらず街のストレス生む音は消えることはない、ということか。本作品は様々な音を印象付けさせている。
*兄が訪れる彼が好きな女の子の家の間取り(上昇したり下降したりするあのエレベータは兄の気持ちも代弁しているのだろう)などの空間づくりもおもしろく、戸川純の葬式相談はいつも笑ってしまう。松田優作&少年の家族の所作アンサンブルも上手いな、となる。
*三段法やイエ制度から抜け出ている軽チャーと同じように森田テクストの特徴のひとつが、最終的には解体(ないし崩壊)を通して愛のまとまりへと帰結するところである。彼のテクストは本作から、そして以降、顕著に表される。本作のラストで表される食事会のグチャグチャがそのこと語らしおん。
*ダヴィンチは最後の晩餐を模したような晩さん会がグチャグチャになるところ、ユダヤ社会にアンチテーゼしたキリストのように優作、学歴社会にアンチテーゼする、さほどアタマのよくない大学の7年生という経歴、学歴社会にどっぷり浸かる日本人家族をアンチして叩きのめす。バットで親の頭を砕き殺した少年事件がその頃にはあるので、その時代において学歴社会はそうとうストレスを生むことなっているのであったのであろう。
*註1:思えば、バブル期に入る前のエイティーズの方がストレスが今日よりかなりあったのかもしれない。森田プロデュースの映画シリーズ『バカヤロー』はそれを代弁していて、そんな罵声を浴びせないとこの社会やっていけないということが謳われていたのだろう。それに高度成長期のピークの頃のジャポネーズは高市さんが言う以上に働いて働いて働いていたのだろうと想像する。
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