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2025年11月15日13:12

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甘い生活 覚え書き


☆『甘い生活』(La Dolce Vita 1960:フェデリコ・フェリーニ) 覚え書き  
 *購入したので観る。購入前からけっこう観ている。も、久しぶりに観る感じ。こちらもカンヌ映画祭最高賞パルムドールを獲得。カソリックをコケにするビリディアナに比すればこちらはカソリックに憂い顕す慈愛なのかもしれない。そしてやはり、ニーノ・ロータの音楽がよい♬ ドゥミにルグランが必要不可欠なようにフェリーニにはニーノ・ロータが永遠の智(とも)なのである。
 *エスタブリッシュ・シークエンスでキリスト像が主人公マルチェロの乗るヘリコプターに吊るされ空で運ばれている。人々は空を見上げ歓喜するも、ビルに映る影と同じように、キリストはもはやその時代において(そして時は流れのこの時代においても)実体のないものとなっている。甘い生活とは堕落する日常の比喩なのであろうか。主人公が出会う日々での彼の堕落する日常が表されるようにも見えてくる。日々がそれぞれエピソードのようにオムニバスされる。
 *主人公マルチェロは特ダネを探しスキャンダルをあばく記者であること、キリストが空で運ばれるエピソードの次の逸話で語られしおん。されど、「汚いことをするな」とセレブからののしられる。スキャンダルをあばくというよりもセレブら有名人の日常をおもしろおかしく戯画化しているところもあるのだろうか。そうしたところもそれら人々からけむたがられる訳アリなのか。戯画化すること、若きフェリーニが風刺漫画家していた頃の体験を本作品は受け継いでいるところがあるのかもしれない。(かつての日本の雑誌フライデーやフォーカスもそんな感じだったのかもしれない。)
 *マルチェロは彼を体現化するマストロヤンニとイメージ重ならせる意図もあり、同じ名前にしているのかもしれない。女性の心を掴むのがイタリアンイケメンらしく上手い。そしてマルチェロが行う出来事はイコール、スターが行うふしだらな日常、堕落する生活、スキャンダル、されど字義通りに甘い生活スウィートライフ、といった人々がイメージするもの(実態は違うものか、それはWho knows?)をオーディエンスに想像を重ね合わせ信じ込ませ、甘い生活をより身近に感じさせる術をフェリーニは使っているのだろう。
 *最初のエピソードで、アヌク・エーメ演じるブルジョワ・セレブはカメラでバシバシ撮られる日常に不満を抱いていること、マルチェロに言う。マルチェロを乗せ娼婦も乗せローマを走るとき、彼女はローマは嫌いだと言う。マルチェロはローマが好きだと返す。娼婦の家でのふたりの道ならぬ恋。密通を終わらせ自宅に帰ると、恋人はマルチェロの女たらしぶりを嘆いて自殺未遂騒ぎ。次のエピソードではハリウッドの大スター、アニタ・エクバークが記者団とカメラマンがカメラ待ち構えるなか、飛行機から降りてくる(アニタにジェーン・マンスフィールドやマリリン・モンローといった当時のグラマーなハリウッド人気女優をリマインドさせるだろう)。前のエピソードのブルジョワセレブと違い、彼女はカメラに撮られることは大好き大好きなようである。塔にのぼり昇天するかのように、バチカンの前、マルチェロと見つめ合う。夜に逃げ出す彼女とマルチェロ、ふたりがトレビの泉のなかを歩く有名なシーン、主人公とミューズのあいだに神聖なるムードが顕れる。これらふたつのエピソードはラスト、甘い生活でありながらも因果応報に不慮の事故と化す。恋人は自殺未遂、そしてマルチェロはアニタの恋人の大スターからパンチを浴びる。友人スタイナーはバッハのカソリック賛美するかのようなトッカータとフーガをオルガンで弾くもマルチェロは気が咎める表情をし、天使を見たという子供たちの取材では、その場所は、大勢のやじ馬信者でごったがえし、やらせが聴衆を扇動する。そこにあるもの、それはもはや宗教ではないただの大スペクタクルと化している出来事だけである。当時の現在に向けた倫理批判や宗教批判がアイロニカルに続く。が、現在なうにおいては、倫理の欠如過ぎがもはや当たり前にまかり通っているのか、ほとんど気にもとめなくなっているのではないか(そもそも日本はカソリックが文化的ミームとして根付いているイタリアとは違うバックグランドなので違いは大きくあるであろうが)。そうした意味では、当時から現在に向けたメッセとしても本作品はit worksなのかも。
 *後半は、マルチェロは説かれ、そして問われる。友人スタイナーや少女、そして父親と過ごす、それぞれの時間、彼らのロゴス、所作、バックグラウンドによって説かれる。マルチェロは彼自身に問う。スキャンダルをあばく記事ではなく、他にもっと書きたいものがあるけれど、マルチェロは書けない。甘い生活のなか、身近に感じながらも遠い存在である彼らに説かれ、そして問われる。
 *スタイナーはマルチェロの彼女エンマに「自分を愛するではなくマルチェロを愛しなさい、苦しくはなくなる」と言う。俯瞰に物事を捉えることができるようなスタイナーである。されど、彼は彼の平和で秩序だったように見える家族に感銘するマルチェロに「秩序から離れた場所に行きたい」と言う。矛盾を抱えながらも、或いは、それだからこそ、フィロソファーとしての人間の姿がそこにあるのかもしれない。
*親しみをもつ身近な存在でありながらもなにか遠くにいる父親や少女、そしてスタイナー。そこに表されるディスタンスがフェリーニのテクストには陽気さとともにその裏いつも見え隠れする。それはフェリーニが好きなチャップリンが表すペーソスとはまた違った哀しさをもつもので、そこには虚無感すら醸し出されもする。フェリーニのテクストにおける或る、されど重要なファクター。
 *スタイナー宅でのパーリー、テープに録音された雷がとどろく。エンマは美しいと言う。自然の音が鳴るが、大都市ローマは自然を消し去りつつある。
 *ヴェルヴェットアンダーグラウンドに参加する前の、そしてガレルのパートナーになる前のニコが出ているとは今回観賞のサプライズ。
 *ニコに連れられマルチェロは公爵の大邸宅でのインモラルなパーリーへと向かい、その後のエピソードでは恋人との不和、悲劇、またもや乱痴気パーリーへと続き、パーリーからの解放、清々しい朝にビーチへと向かう人々(カビリアの夜の余韻が美しく響くラストになにか繋がるものがある)、自然のなかの他者の悲しいまなざし、そしてラスト、イノセンスの声が届かないことでの純真の喪失と贖罪の顕れ。笑顔の彼女が我々にも向ける眼差しが物語るものは、我々に向けた批判、というよりかは、問いかけであり、人々を見る視線であろう。オリジンなるスピリットを失った宗教や倫理への批判、というよりも、その時代、或いは、その時に生きる人々を見つめること、悩みながらも今此処を生きるヒトを優しく包み込む眼差しがそこにはあること、ラ・ドルチェ・ヴィータは語っているのではなかろうか。甘い生活、そこには不可逆に戻ることができない人々の憂いや哀しさが表され、されど生きるなか示す人間の強い生命力もまた表されている。





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