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2025年09月24日11:00

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島田のパンプキン/島田市博物館~3/4

(続き)

◆第3章「変容する日常~島田の戦時生活」
多くの男性が出征したため、国内に残る女性や高齢者、子供達迄もが戦時体制に巻き込まれていった。いわゆる「総力戦」である。
中でも、女性達は銃後で重要な役割を果たす事となる。
「愛国婦人会」や「大日本国防婦人会」は、出征兵士の見送りや、戦死者遺族の慰問、国民貯蓄の推奨活動、防空訓練の実施など、戦時生活の支援を幅広く行った。

島田では、愛国婦人会島田町分会や大日本国防婦人会島田分会,下川根村支部が組織され、金谷国民学校での栄養講習会や、中川根村の満蒙開拓団の女性視察員報告会の開催など、近隣町村との合同活動を行った。
下は両婦人会のタスキと、大日本国防婦人会のバッジ。写真は愛国婦人会島田分会が行われた時の記念。
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賞状は、愛国婦人会島田町分会が行った軍隊慰問と寄付金に対する謝意を示したもの。
発行者は陸軍大臣 板垣征四郎。板垣は、戦後、A級戦犯として絞首刑に処せられた。
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1942(昭和17)年、両団体は大日本婦人会に統合され、日本国民のうち満20歳未満の未婚女性を除く全ての女性が加入し、総動員体制の根幹を担った。
(戦争遂行を大前提として、上意を下達する一方的な組織となっていった事は否めない。)
こちらの賞状は、大日本婦人会島田町支部下の国民貯蓄組合に贈られたもの。
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・生徒達の勤労動員
太平洋戦争末期には深刻な労働力不足を補うため、小学生以上の児童も数多く動員された。特に、新たな土地の開墾や食糧生産などは幼い児童達の手によって行われた。学校では防空壕などを除く校庭が畑地とされ、島田の児童達も校庭や大井川の河川敷でサツマイモなどを育てた。
(動員を背景に、2人のいかにも幼なそうな男女児がかついでいるのは竹槍か?)
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大学生の学徒出陣が実施されると、現在の中学生から高校生に当る年齢の生徒も次々動員された。
島田商業学校(現 静岡県立島田商業高等学校)の生徒達は、現在のJR島田駅,金谷駅間を結ぶ大井川橋梁の警備や補修を想定した訓練を実施。
(彼らが持っているのは銃剣のように見える。これが飛行機による掃射や爆撃に対する防御になるとは到底考えられない。)
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島田高等女学校(現 静岡県立島田高等学校)は軍需工場となり、女子生徒達も通常授業の代わりに軍服の生産や看護実習などに従事した。
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・戦時債権
出征して帰国した兵士に与えられた債権。
政府には兵士に支払う手当や慰労金などの資金がなくなったため、代わりに債権が渡された。
展示品は1940(昭和15)年発行、「支那事変行賞」となっている。
文中に細かな字で償還期限が書かれており、それを過ぎれば単なる紙っぺらに過ぎない。
(太平洋戦争が始まる前、随分早い時期から債権が使われていたものだ。日本の貧弱な懐事情を物語っている。)
上部に個人名が印刷されている。
下の部分を都度ハサミで切って償還に使ったのだろう。
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◆第4章「空襲、特攻、そして終戦」
米軍は、当初、戦争に勝つためには日本国内の航空拠点への攻撃が効果的だと考えた。航空基地や航空機の部品工場などを破壊すれば、日本軍の力を削ぐ事ができる、と。
しかし、1945(昭和20)年3/10の東京大空襲の前から方針を換え無差別爆撃を行うようになる。
(この転換には、米陸軍航空軍司令官として着任したカーティス・ルメイの存在が大きい。日本を焦土とした彼に、日本政府は1964年、勲一等旭日大綬章を授与した。
〜参考レポート「M・グラッドウェル著『ボマーマフィアと東京大空襲』」/2024.9.27記
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988482977&owner_id=3341406)

静岡県でも軍需工場があった静岡市,浜松市,沼津市などが空襲被害を受けたが、のち無差別爆撃に変わっていった。
島田も1945年頃には空襲を受けるようになったため、防空訓練が頻繁に行われるようになった。
また、全国の航空隊では特攻隊が編成され、効果甚だ薄く、全体(お国)のためとして人命軽視の蛮行が繰り返し行われた。

・防空用防毒面
1942(昭和17)年、空襲に備え、民間人向けに製造・配布された十七年式防毒マスク。国民に防空意識を根付かせる目的で製造・支給された。
「防毒」と言っても使用材料は単なる活性炭。日本軍には「七三一部隊」なるものが存在したが、連合軍は毒ガスや細菌を撒く兵器は使用していない。
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・灯火管制
空襲時に敵機の目印となるのを防ぐため使用させた。
底面からのみ光を発するよう側面を黒く塗られた電球と、上方に光が漏れないよう工夫された電灯の傘。
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・空襲に対する訓練
 上、旧金谷町で行われた焼夷弾実験と防空訓練。
 下、旧島田町で作られた木組みの防空監視塔。
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写真を見ると、塔の上や周囲にいるのは殆どが女性達。男手がなく、彼女らの手によって造られたのだろう。

焼夷弾による空襲に対し、逃げるより消火を人々に義務付けた事が、人的被害を大きくしたのは間違いない。
〜参考レポート「東京大空襲・戦災資料センター」(2024.12.4記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988926921&owner_id=3341406


(続く)
 
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