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2024年12月04日11:00

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東京大空襲・戦災資料センター

11/28〜12/1の上京で一番先に行ったのは、私のリクエストで、江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」である。
半蔵門線の住吉駅で、国分寺のK村と落ち合い、20分弱南東方向へ歩く。

何故ここへ行こうと思ったかと言うと、今年9月にレポートしたノンフィクション『ボマーマフィアと東京大空襲』の中で、著者のマルコム・グラッドウェルが、同書を書くきっかけになったと発言していたからだ。
〈参〉「M・グラッドウェル著『ボマーマフィアと東京大空襲』」(2024.9.27記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988482977&owner_id=3341406

グラッドウェルにインタビューした北川成史が中日新聞朝刊記事(2022.9.2)にこう書いている、
グラッドウェルの「背中を押したのは東京都江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」だった。」
「(中略)別の仕事で来日した2019年、空いた時間にセンターを訪れた。『信じられないほど力強く、心を揺さぶられる博物館だった』。生存者の手記や一夜で荒廃した街の写真が淡々と並び、事実を伝える。『飾らない、つつましやかな展示が胸に響いた』
そして、振り返る。(米国では第二次世界大戦を扱った本が限りなくあるが、原爆と違って東京大空襲は注意を払われず)『大半の米国人のように、自分も東京大空襲の歴史について、何も知らないのだと思い知った』」と。

◆「東京大空襲・戦災資料センター」の成り立ち

1970年代、「東京空襲を記録する会」は、空襲と戦災に関係する資料や証言を集め、東京都に公立資料館の建設を求めてきた。都は建設計画を立てたにも関わらず、1999年に凍結、今も実現していない。
「東京空襲を記録する会」は収集した資料を守り、語り継ぐべく、「政治経済研究所」と協力、施設設立のための民間募金を呼び掛けた。結果、4,000名を超える人々から募金が集まり、2002年3月オープンに漕ぎつけた。初代館長には「東京空襲を記録する会」発起人の1人である作家 早乙女勝元(1932-2022)が就任。
増築・リニューアルを経て、2022年には開館20周年を迎えた。
現在も当館は会費・募金に支えられ、資料保存、展示、イベント企画開催、研究推進を行っている。
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来年3月は東京大空襲から80年となる。「被団協」がノーベル平和賞を受信する事となった今、あらためて東京大空襲とは何だったのか、様々な角度から考え、世界へ発信していきたいものだ。

◆館内の構造

1階;映像・講話室。東京空襲被災地図等。

僅かだが、各階・各コーナーから展示例を収めた写真を貼付していこうと思う。
・《蒼氓・焼死体の山》(1990)井上俊郎
井上は、後年、記憶を掘り起こし、東京大空襲(1945.3.10)の翌日上野公園に運ばれてきた焼死体の山を描いた。
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・被弾し傷ついたピアノと焼夷弾,防空かぶと/目黒
1945年5/24の空襲で、屋根を突き抜けた焼夷弾がピアノの左肩をかすめた。不発だったので焼けずに残った。
ピアノの譜面台にはシューベルト《楽興の時》の古びた楽譜。
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・両国上空から見た深川方面の焼跡(1945.9.7)、米軍による空撮
右が墨田川、奥が東京湾。中央の建物は旧国技館。
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・小名木川貨物駅付近の焼跡(1945.9.28)、米軍による空撮
城東区(現江東区)の北砂町・大島町付近。南北を貫くのは明治通り、東西を直線的に流れるのは小名木川(江戸時代初期に造られた運河)。
貨物駅と隣接する貯木場は現在ショッピングモールになっていて、敷地内には空襲犠牲者追悼碑が建てられている。左側に見えるガスタンクのやや下に、のち戦災資料センターができた。
住吉駅からここへ歩いてくる時も小名木川に架かる橋を渡ってきた。
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2階;展示室は以下4つのコーナーに分けられている。

� 崟鏤�下の日常」
関東大震災(1923)から復興する東京の街。次第に戦時体制に組み入れられていく。当時の暮らし(ex.灯火管制)、学校の様子(ex.学徒勤労動員)、防空のお粗末な現実。
・下の写真;空襲で被災した工場での学徒らの作業風景(1945.5~6月頃)
男女共「神風」の鉢巻を締めている。戦意高揚のために撮られたと考えられる。
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・空襲時の日本の防空体制
住民には充分な装備を与えられないまま、避難でなく焼夷弾火災の消火が強く求められた。これが焼死者が増えた原因の一つとなった。
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�◆峩�襲の実相」
空襲に使用された焼夷弾。体験談、体験画、一夜明けたのちの惨状光景写真。被災品の数々。朝鮮人の空襲被害、等々。

・1942年4/18 本土「初空襲」;航空母艦からB25爆撃機を16機飛ばし、東京,横浜,名古屋を攻撃した奇襲作戦。通称「ドゥリットル空襲」。東京では13機により41人が死んだ。日本軍は1機も撃墜できなかった。
・1944年11/24〜 グアム,テニアン,サイパンから飛来したB29による本格的な「初期空襲」。中島飛行機武蔵製作所を第1目標、東京市街地を第2目標とし、対象を絞った「精密爆撃」。1万m上空からの爆撃は目標を外す事が多かった。
・1945年3/10 通称「東京大空襲」。東京都下、市街地・住宅地を狙った無差別爆撃。死者10万人、罹災者100万人超。
6月以降は中小都市が目標になり、東京では八王子等が空襲されるようになった。

・「AN-M69」1945年3/10の東京大空襲で主に使用された油脂焼夷弾
ゲル状の油に着火して辺りに飛び散った火は、容易には消火できなかった。
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・炭のようになった焼死体が路上に散乱(1945.3.10)/本所区(現墨田区)石原町
石川光陽は警視庁のカメラマンで、空襲被害の撮影が任務だった。3/10は少なくとも35枚撮影、内6枚は遺体を撮っている。
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・焼死した親子の遺体(同)/深川区(現江東区)洲崎または本所区、撮影石川
子供をおぶっていた母の背だけが白く残っている。東京大空襲の惨禍を示す写真として度々採りあげられてきた。
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・菊川橋付近の水死者/本所区菊川町、撮影石川
大横川の遺体を回収する様子を写した中の1枚。この日、石川は上野公園と菊川橋付近の遺体処理を13枚撮った。2日後には、富岡八幡宮で焼跡を視察する昭和天皇を撮影している。
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・上野の両大師脇に下谷・浅草から運ばれた遺体(1945.3.12)/下谷区(現台東区)
寛永寺両大師に集められた遺体。焼けた様子が見られず、窒息死あるいは溺死と考えられる。
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・焼けた旧国技館と牛車/本所区東両国
回向院に隣接して建っていた国技館は火災と関東大震災に続いて3度目の焼失となった。片づけられた京葉道路を牛車が進む。人影は見えない。
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・焼けた明治座(1945.3.11)/日本橋区(現中央区)浜町
コンクリート造りであったため空襲時には避難場所となったが、内部に火災が及び、多くの死者が出た。死者数は少なくとも数百人と言われ、近隣住民の他、沖電気の少年工や女子挺身隊員約50人が含まれていた。手前には防空壕も写っている。
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��「証言映像」
空襲体験者の話、その音声と映像。

�ぁ峩�襲後のあゆみ」
仮埋葬の様子。戦災孤児、食糧難。敗戦から占領へ。空襲記録運動、補償運動。そして、当センターの歩み、平和へのメッセージ。

・隅田公園(浅草側)の仮埋葬地(1945.3.19)
隅田公園は本所側、浅草側両方に仮埋葬地が作られた。棒杭の先に付けた布切れには氏名等が記されているのだろう。
写真から、浅草側は言問橋の南にあった事が分かる。後ろに見えるビール工場は現在アサヒビール本社になっている。改装が行われる1950年頃迄は、彼岸等の度に仮埋葬地で手を合わせる遺族の姿があった。
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・空襲記録運動
大空襲から25年後の1970年、当時の美濃部都知事に戦災の記録をまとめるよう要請、「東京大空襲を記録する会」が結成された。
会は広く体験記を募集し、1973〜74年には『東京大空襲・戦災史』全5巻を刊行した。
これをきっかけにして、全国各地に記録する会が作られ、全国連絡会組織ができた。
この延長線上に本センターの建設がある。

センターの前にある2つの彫像
冒頭に掲示したセンター正面の写真にも小さく写っている。
・《戦火の下で》原型制作 河野新 1978年 、設置2002年3/10
江東区の母親達の、戦災による死者達への追悼の思いによってここに設置された。
母子像の脇には太平洋戦争当時の防火用水マスの現物が置かれている。
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・《世界の子どもの平和像(東京)》原案 阿部可奈子 2000年(当時練馬区大泉西中学2年生)、制作 岡村光哲 2001年、設置2001年5/5
東京の中・高校生達が原爆や空襲等、過去の体験に学びながら彫刻のプランを公募し、募金を集めて建てた。21世紀を核兵器のない時代にと願い、生まれいずる未来への希望を卵に託している。
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ヒビが入った卵には包帯が巻かれているのが分かるだろうか。
 
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