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2021年12月25日13:07

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アメムビちょこっと覚え書き252


  身体性/イマージュ、、イマヘイワカマツシンドウのそれは盆踊り的ボディ。すなわち、稲の収穫を祝い夜這いをサンバするイマージュ。ボディは生きると闘争の戦後を体現するものとして存在される。デモクラシー、ヤミイチ―、セキュリティトゥリアティー、ヘイワとフッコ―、アートシアター、カウンターカルチャー、エーティージー、状況とテンジョー、ピンクにプロヴォーク、写真時代と原宿。身体を失いつつある時代が到来しながらも、我々日本人はどっこい生きている。
  コリンノエカラックスの身体性/イマージュはエレジーでもエロ爺でもなく、ポエジーなのである。世界に在る恐怖と自己に宿る官能のイマージュ。魂の洞窟を探り、その洞窟の中にある−恐怖や罪や妄想の−黒ずんだ絵巻を想像的水準に高める身体性。しかしそこにも、Bonjour Tristesseがあるのであり、Louis de Funès、Buster Keaton、Fantômasがやどる。すなわち、ボードレールやアランポーから綿々と引き継がれるポエジーが有る。
  リンチとタランティーノは”アメリカ”を纏うイマージュ。やはり、ハリウッド。ヴァイオレンスとエロスのエクスタシー、すなわちKissKissBangBang。それは特に、フィルムノワールであり、そこにはKissKissBangBang、クライムストーリーとファムファタールが有る。そして、ダイナーやアメリカン・ポップスといったノスタルジア。世界の悲しみとアメリカンコメディが交錯する。
  ボディは現存在(自己を現にそこにあるものとして自覚する存在)として捉えるとき、”アメリカ”のもと、人間的実存として記憶される。スピルバーグならアメリカ国民としての責任、リベラル、が問われたり、イーストウッドであれば、フロンティア孤高の末裔とは誰かが描かれたりするも、リンチとタランティーノにおいてアメリカ人の国民性が問われることはない。しかし、アメリカは確かに表さられる。そこはクールジャパンでもなければ、アートの都巴里でもない。シュアリー、アメリカなのである。アメリカという寓話。スコセッシの贖罪に悩むひとりの人間ではなくアレンの愛が訪れないことによる不安なのでもなく、倫理という以上に、そこには”アメリカ人”がいる。
  帝国に反抗したアメリカのように、エディソン・トラストに反抗して生まれたハリウッドは、レベルRebelであることをリベラルに美徳とするアメリカンの顔である。それはスーパーフィシアル、表面的。笑顔でハ〜イと挨拶しても中身がない。アメリカンジョークなのである。リンチとタランティーノのイマージュはハリウッド。キッチュでビザーるしてシミュラークる。狂おしいまでのアメリカン。サンタは存在せず、赤い衣装はコカ・コーラが宣伝のために作った、とイタリアの司教はクリスマスが商業化されていると子供たちに説明して子供たちの親から抗議が殺到したそうな。夢がない話はよしてくれ。コマーシャルはドリームなのである。アメリカン・ドリーム。
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