四季奈津子おもしろかった。このタッチ(というのはドキュメンタリーではないのであっての肌感、それとのフィクション性の融合、その後の学生映画にも影響を与ているだろうタッチ)すごっくよかったけれど、何度観ても、ラストのゴダールが写し取ろうとするアンナカリーナな、カラスマルの映像が納得できないんだよね。あの映像の着地がここまで観てるのに、と、なる。カラスまるの笑顔を見たかったのではなく、奈津子を見たかったように思う。
劇中劇のあの映画のラストは烏丸のホントの笑顔だと思うのだけれど、アズマら作り手のメソッドとすれば納得できるけれど、物語的にキャラを引っ張っていってのアレが、ラストの着地点が。ふ〜む、となる。当時としてのセンスあれど、フィクションとノンフィクションの間の揺らぎを改めて考えていきたいな、となる。
Ps etc
阿木耀子をキャストすることにより、いかにもなエイティーズのフィクションの奥行きが生まれ、それとのコンストラトとしての浮き彫りがあるのだけれど、それにしてもあのラストは安直すぎる。
でも、きっとあの安堵感が作品のバランスを大勢のこの作品を好きな人たちに保ってるのだとは思う。たくさんのファンがいる作品だし。ラストやはり納得できないけれど。
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