『ブレックファスト・クラブ』
カザンやロッセンが表したような泥臭さではなくエイティーズらしくお坊っちゃま的プラスティックであるが、それでもその時代らしい、あるがままのそのときを表している。自分とは何者かというのは愚問であり、ジャド・ネルソンがラストに付ける耳ピアスの輝きのようにモメントそのときそれぞれに人は己自身を表現することができる。どんな人間になるかといった希望的観測にしかすぎない幻想に触れなくても、あるいは自分が誰であるかということで嘘偽りし悩まなくても、ヒトは事象ひとつひとつのモメントに生きている。現在進行形にエクスプレスする。
ジョン・ヒューズは登場人物間というではなく、映像のなかに独特の間や空気感を生むのだが、様々に違ったタイプの人物たちが遣り取るこの屋内劇にはそれが見事に分かりやすい形で表される。そのBPMはグリッドにおいて、不器用な若人たちをぎこちなくもMTV的軽やかさによって、悩み焦り素直さ明るさを表してみせる。痛々しくも決して残念にならない人たちをそこに生きる証として表現する。早朝から始まるこの作品、朝日がもつ清々しさを終始変わることなく保ち、ラストはそれをピアスの輝きにつなげている。
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