都市空間と肉体の考察のために観る。ってのは嘘で、理屈ではなく、観たいから観る。これぞまさしく都市空間と肉体への思考である。
『蜜のあわれ』
あたいが見る鏡の断片に己が現れている。怖いもの、情を見ている。あたいは自分を見ている。赤子が先人たちを見ている。幽霊ゆえに情を求め彷徨い揺れる。
だからこそ、田村ゆり子は赤子に吸い付く。作家が赤子を導き出し、赤子がゆり子を揺り動かす。一人称が二人称と三人称を吸い込み吐き出すような、精神世界が石井岳龍にはいつも展開される。都市空間と肉体とにおいて、爆裂都市のかつてよりも更に精神世界へと埋没するときにおいて、より哀れみを奏でている。哀れみあらわしながらも、オリエンタルにしてエキゾティズムを併せ持つ二階堂ふみが、心を読ませずその表層においてエロス漂わせ、エモーションは無垢にその空気に同調する。
一人称が二人称と三人称と同じものだからこそ、空気は清らかに空調するのである。その調子にラスト、男と女はダンスする。
あの〜その〜、園子温の、、テヘヘ、『アンチポルノ』観ちゃいました。虚構と現実、どっちなんだ、俺はピエロだ、死んでやる〜、うぉ〜爆発だっ、みたいな中二病的社会派ではなく、とてもJK的深層心理派である。曖昧、というよりは有耶無耶な不安定的身体と色情空間、サブカルなカウンターパンチカルチャーは都市を愛に剥き出しにし、『自殺サークル』や『リアル鬼ごっこ』と同じように、吐息まみれに自転車を漕ぐかのように出口なしの都市空間、駆け回ったり這いずり回ったりする。コンパクトな上映時間のなか、園子温節がフル回転なので、彼のテクスト性がより判りやすく近づく。ブニュエル的な天井斬り裂く電動ノコギリと食卓から天井を見上げる人の姿、スーレアルである。とても面白かった。園子温のなかでも私的にかなり上位の作品となる。園子温はいつもと同じように乙女心を持ち合わせている。色情まみれの。
『六月の蛇』
ピンホールカメラは動く存在を消し去る。そこにいながらにして、生物はその慟哭を記し去っている。愛はそうした時間に生まれる。死と再生とはそういうことであり、りん子は誰の眼からにも確かに笑みが浮かばせている。
梅雨の襞がガラスに映る。慈愛を注ぎながら愛を求めているのである。世間から逃れ己の欲望に準じるとき、われ思うが故の我が在るのだ。しかしながら、世間体に生き排除したいものを排除しきれない毎日を送りながらも、欲求は満たされていると思う。
痛みを抱え持つルーザーは、彼のカメラアイ、充たされない欲望を紡ぎだす。連射の彼女のフォトが哀哭している。過ぎ去る時間のなかで破顔を露わとさせる。彼女の笑顔の眼差しには涙がうっすらと浮かべられている。涙目のエクスタシー、道郎が捉えたものが慟哭している。カメラアイはムーヴする。りん子が見つめるものに襞がある。過ぎ去る時間には愛が顕れる。
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