『西瓜』
都市ないし現在という現実を代理する空間、カーウァイにおいては夢が形づくられるが、それに比しミンリャンはもうひとつの現実においては夢のなか、哀しみ隠しけれずに生きる人々を表す。現実を代理する虚なる都市では、恋しているにもかかわらず、相手は現実対象にはなりえず心が触れれずにいる。そして女性は、思い出でもなんでもない想いが詰まったスーツをかかえこんで生きている。AVのコーナーのそのキャンピーなる、虚構なる現実でふたりは勿論No Touch No Life。
超絶ハード蓺、しかしラバースーツは脱ぎ捨てる赤裸々。レネの時間やアントニオーニの如くな空しさからは脱しており、オリジナリティ。哀しみは虚しさより増し往くヒューマニティ。ラストのショット、穴越しの洞で握り合う手と手に表された『Hole-洞』の救済とは違い、ここに現れる自己保存的な欲望、あの女性は恍惚を得られたのだろうか。
エスタブリッシュされる左右にひろがる二股の道、その魚眼か広角のレンズに表されるような世界観、『西瓜』が耳で視る作品であることを指し示す。都市空間が三次元に拡がる。水に飢える街の哀しみ、されどミンリャンのテクストに度々あらわされる浮遊は不安定を表すことなく、ポイエシスなヒューマンを表すもの喜怒哀楽艶やかに描かれる。
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