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2018年02月04日11:40

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グランド・マスター 黒衣の刺客


『グランド・マスター』
群像劇にして絡むようでからまずオチがないような展開、やはりウォンカーウァイらしい。チャンチェンの存在とはなんだったのか、歴史という生の世界において、トニーレオンの義にコントラストされる血として存在するのか、ってよりも、ウォンカーウァイのストラクチャーがこうであるから、なのであると言った方がよいだろう。こうしたストラクチャーがカーウァイの独自性を保証する。

トニーレオンは義を司る武術を操り、チャンチェンは血を司る武術を行い、そしてチャンツィイーは進歩という時代に抗い意思としての武術を継承する。統合されることはなく分散するが、これは決して悲劇的なこととして表されることなく、個性の拡散としてのマーシャルアーツ。属することはない浮遊の抗い。

カーウァイのモンタージュとっても独自的。独白的ナラタージュの映像と音のズレは健在する。映像は意味分からんところにコマ抜きスローモーションしたり、物語と関係なく、というか反するように意味なくスッキリと綺麗なショットが時(空)間切り取りならざるものとして連出される。しかし、その途切れさせるようなショット群も、かつてのハンドヘルド&ジャンプカットにクリスドイルするカーウァイしていたものの延長であり、彼らしくモノが散逸するオモシロさ表している。ナラタージュなヴォイスにおいて、以前も連動しているようでズレを生ませていた、時間と記憶を叙述するかのような声も今世紀に入ると抑えられてきている。『グランド・マスター』は映像に比重をおいているかのよう。ショートカットするような物語展開も表され、それにもかかわらず、時空間の切り取りならざるショットの連出でカーウァイ独自の時間が創りあげられる。

カンフーアクション、王道にして不動の胸がすく痛快なる動きがムーヴする。『楽園の瑕』のような、カンフーを取り入れてもヌーヴェルってるかつての時間の系列的な独自性に比べ、コマーシャル映画の風情になっているけれど、それでも全体的には、いつもの意味不可能性が表され、それがエンタメと上手く結びつき、カーウァイの可能性を存分に発揮するのである。


『黒衣の刺客』
エンシェント・エイジのハナシで宮廷衣装や、或いは樹木群による奥行や揺れ動く草々のロングショットが表されるからだろうか、シャオシェンの引きの長回しの絵、これまで以上に、というかモロにミゾグチしている。

されど、導入部の白黒イメージ、かつての溝口譲りの奥行きに比し、手前、中奥、そして奥と三層にレイヤーするそのイマージュ空間、自然(ネイチャー、すなわち人間の本質であり、それと同時に大地等の自然なるもの)を奥深く創出する。また因果応報を霊的に描く溝口と違い、中国3千年の思想豊かに人間の駆け引きたるものを山水画の書のごとくにロゴスする。シャオシェンが表すネイチャーは人間を、というよりスペシフィックに中国人を深く掘り下げる。それは彼が常に自ずと表してきたものであり、突き詰めれば万人に受け入れられることになる普遍性としてあるものである。

カンフーアクション、ロングテイクに表されるものからイキナリ、アクション。静けさを途切れさせるものとなる。しかし、自己主張的なアクションとはならず、絵に溶け込ませる動きであり、特出することなく静けさに融和するものとしてのアクションが展開される。

主人公と彼女の父親、そしてチャンチェンしか顔と姿を認識できず、他の登場人物は誰がだれだかと区別できず、妻夫木も映画を観終わってから知るのであり、忽那汐里にいたってはどこにいたのかもサッパリ分からず、それゆえ物語の流れ的に掴めないとこも多々あるが、絵/映像において吸い込まれるかのように堪能できる作品でもあり愉しめた。



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