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2018年01月24日12:28

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ニンフォマニアック

『ニンフォマニアック』
説話である。バタイユの『眼球譚』は内省するフォルムだから違うのだけれど、アポリネールの『一万一千本の鞭』やアルフレッドジャリの『超男性』は我々読者に主人公が彼の経験譚を聴かせるようなフォルムであるが、そうした説話形式をフォントリアーは映画テクストにするべく、聴き手を置いて、奇想天外なセクシャル譚を主人公の語る噺とそれを聴く男の想像するイメージによって表す。そこには話し手が講じ、聴き手が耳を傾ける説話が必要性あるものとして表される。フォントリアーはやはり説話の現前へと志向させる作家である。

第一部は父性の喪失が表され、第二部では母性の芽生えが表される。愛の説話だ。
   そしてその説話は、我々を紐解くための説話として機能していく。

これまでフォントリアーは言われているほどイジワルとは思わなかったし、寧ろ、彼には純なもの描くヒトと思わせられていたけれど、この作品を最後まで観ると、けっこう彼がイジワルなところあること納得できてしまうのであった。フォントリアーの作品でもけっこう暴力的でねちっこい悪役も多く演じるスカルスガルドは今作では善人ぶり、おもしろいなと思って観ているとまさかあーなるとは全くもって意外であった。ゲンズブールのスキャンダルなイメージを身体をはって体現する主人公、お●っこまで放水され挙句の果てには人まで殺してしまい、堕ちるところまで堕ちるマグダラなマリア的贖罪が表される、というより、有限性に落ち着く一般人たる劣男性は聴き手としてこのテクストに存在し化けの皮をはがされる。イディオッツにおいて化けの皮を剥そうとし同時に人間性を突き詰めたものと同じである。暗転してからのスカルスガルドの暴言と銃声、ミームに確かにあるはずの本能を露呈する。

第一部も第二部も、欧羅巴に伝統的にある説話の形式をとりながらも、映画のリアルは抑圧を開放し倫理を顧みさせ、そしてそうした余裕もなくさせハビトゥスを裸にさせる。フォントリアーはシネアストとして準じている。


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