あれだけ上手く人間関係が繋がっていたこと、それ自体がなによりもOh!ジーザス的なミラクルだったのだけれど、それはそれでドラマなのだと了承したとしても、本田翼と山本美月はJKをやるのに無理があるとレヴューにあったのだけれど、なんだふたりとも高校生に近い年齢で若いじゃないか!と反論したくなったけれど、観てみると、大人と子供はやはり違うのだとそのレヴューに同意せざるえない感じではあったのだけれど、またレヴューでは、この作品がなにを伝えたいのか分からなかったとあるけど、それはそれで、それオレにも分からなかったのだけれど、翼の叫びと美月の跳躍と山本が本田を外へ連れ出すところはなにか感動してしまうのであった。Nのためにも夜行観覧車も観ても読んでもいないのだけれど、湊かなえはボタンの掛け違いによる齟齬がもたらす勝手な憎しみや本人が気付いてるんだけれどそれを無視する本人自身というテーマ、藪の中のように相違の違いを差異という幻想に導いていくテクニークなのかなと、たぶんザッとしか読まないとは思うが幾つか読んでみたくなるのであった。映画では『告白』を再見、そして未見の『贖罪』を観たくなる。それにしても、これだけ映像化されていても、それとは別に湊かなえの文体というもの気になる一方、松浦理英子のものは小説の自律性として存在し続けると同時に、映像としては成立しにくいのかなとも思えてくるのであった。
松浦の『最愛の子ども』と湊の『母性』、語り口における、人物の視点の置き方が気になる。
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