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2017年10月12日23:24

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ゼア・ウィル・ビー・ブラッドとアイム・ノット・ゼアにおけるゼア論


『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のゼア、ゼアリズサムシングのそれゆえに、その存在、不特定の〜が在る、それはやがてあるものであろうがそうでなかろうが、映画の時空間に現前するイマージュには、絆や契り、或いは、パンと葡萄酒の赤いもの、血であるもの、そして暴力によって引き起こされる血、そうしたもの表され、それは不幸や呪われたものに終始するではなく、PTAを考えるならば『ブギーナイツ』と『マグノリア』、それらだけではなく彼のテクスト全てに表される父子の激闘において表されるように、迸るエナジー(それも、多分であるが、でもきっと、マーク・ウォールバーグが『ブギーナイツ』のラストに表すその姿のように、若人の方に希求されるそれ)が表される。『アイム・ノット・ゼア』におけるゼアとはなんだったのか。彼岸でも此岸でもある場所であり、『SAFE』の主人公が調和しなければならない世界でこうむる強迫観念のように、それがおこる場所であり、ディランが上手くノーベル賞というセレモニーに取り込まれた場所であり、そこでは彼が属したくなかったであろうことが求められ、そこでは意味を問うこと自体がおかしく、無意味の崇高が希求、というより在るのである。トッドへインズにおける、走馬灯のように忘却と回帰を繰り返す多様体には、それが“在る”。『SAFE』では剥奪される、というより、彼女自身でも分からないままに翻弄されるけれど、『アイム・ノット・ゼア』では『エデンより彼方に』や『キャロル』にも表されるような、確かな意志が働いている。権力に対する苛立ち、ということより以上に、その世界での苦悩、或いは身のかわしがより強く表されている。重さが転じて軽くなる表現、おもしろかった。以前観たときよりよかった。138分も長くは感じなかった。


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