『ヘイル、シーザー!』
同じくチャニング・テイタムが出ているタランティーノは『ヘイトフル・エイト』と同程度の出来のセンス。コーエンズのテクストにおける深さをあまり感じられないが、いつものように人生の疲労感を漂わせる。フィルムノワールってよりもハードボイルド。オトコはタフに生きなければならない。クルーニーが前面に出ていてジョシュ・ブローリンがもっと脇に回っているのかと思っていたら、ブローリンがハードボイルドなボギー的にプロタゴニスト。懺悔したりと苦労がたえない感覚、世話役としてハードボイルドにハリウッド社会を生きる。そして、ハリウッドを愛す。時折でてくるヘッドハンター、主人公は腕を高く買われている。もはや映画の時代ではなくジェット機の時代が到来しているのって、そうした感覚が一般的にあったのか。引き抜きの話ある、されど、主人公はスタジオを愛している。アメリカンしている。飛行機と映画、描かれている時代がこの作品での時代よりずっと前なので、映画が廃れた風には描かれないけれど、スコセッシの『アビエイター』となにか想起的にリンクさせる。飛行機と映画にはキャピタリズムにおいての大いなる表象が表されている。知覚変動の時代、されど、ハリウッドは昔も今もどっこい生き抜いている。ハリウッド社会がけっこう愉しく表されていて、あそこで生まれ育ったケネスアンガーは、張りぼての中で生きていたのかとウキウキに感じてくる。
張りぼてを愛そうが、アメリカンであることは勤勉であること、そのDILIGENCE、とてもアメリカ臭い。アメリカ人とはこうなんだという感覚がモロに出ていて、それがこの作品の大きな魅力である。世話役処理役とハードボイルドに仕事をこなし、家庭のシーンも入り生活を窺わせ、時間に追われ、勤勉に仕事をハードにこなしていく。ベンハーのように足だけが映るのが時折多く表される。主人公はベンハーもケネスアンガーも、市民ケーンもマルクーゼも蹴散らす。宗教的なことも蹴散らし、理想主義者をも蹴散らす。そして、コーエン兄弟のいつものように、偶然が偶然をもたらす。されど、プロットが表だってあって、彼らがいつも表すような偶然の皮肉さはあまり感じられずである。されどされど、主人公のアメリカ流な生き方は肯定されても、アメリカ社会に対する皮肉は、ある意味、出ている。
コーエンズとリンチって、例えば、道路のセンターラインが表されるところって似ているセンスあるけれど、この作品はなにか『マルホランド・ドライブ』に対する応答のようなところもある。換骨奪胎された『マルホランド・ドライブ』を分かりやすい形で元に戻して、パトリック・フィッシュラーそこにいたし、カウボーイやハリウッドやスキャンダルを表しているかのようなところある。
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