『北京的西瓜』
それぞれのキャラ、ときおりクロースショットがインサートされる。鏡に映るもたいまさこの顔、朝起きるときの彼女の顔、曾我蕭白は柳下鬼女にも似た怨念もち哀し顔にみえてしまう。しかしながらも、後半の彼女の顔に明るさ戻るるときになって、女房の喜怒哀楽の表情に家族の指数が表されるのだと理解できてくる。そして、彼女がどう思うかのダンナの姿が、家族をよくも形作るのだと思ってしまうのでもある。そう考えれば、『家族』の家族もまた男の我儘に従わずにいられなくなった出来事ってより、夫にどうついていくかで家族がいかに形成され生成されるのかが表されていたのか、とも理解できるようになってくる。主人公の姿が作品の方向性を牽引する。人によっては寅さん、おもいっきり笑えても、家族のなかにあんなのがいたら大変だ、というハナシを聞くこともあるけれども、渥美清と同じように四角顔のベンガルの一世一代の名演技、この主人公は家族の外にいるアウトサイダー寅と違って、インサイダーでありながらの風来坊、困った君である、と同時に寅と同じような浪花節も聴かせてくれる。こういったものが原風景なのか。浅香光代は主人公の堀越春三を変わり者だと人は言うけれど、世の中の方がおかしくなってるのよ、と言う。
何度となく観たこの作品である。やはりここに出てくるヒトがよく、そしてそれを体現する演者もよい。終盤の表現、異化作用的ブレヒト、ってより現実に志向させるもの。最初に観たときはオッと思わせたけれど、今回はメッセのしすぎの気の衒いを感じたりする。だけれど、ちょっと時間をおいて考えれば、家族的社会を想うときそれは想起されるべきものだと、何時においても忘却するべきではないことあるのだと気持ち顕われる。天安門事件という出来事は確かにあった。写し移される魂が粉々にあった。この作品に写されるもの、魂の架け橋を通じて移されているのか。この作品、そのこと映さんとしている。
山田は常に“時代”を表し、大林は“ロマン、情熱”を表す。この時代において時代おくれ的なものもふたりから感じるが、共感に思えるかどうかは時を越え、その問いが有りつづけるはずである。日本のエステティックス。人それぞれにある原風景は、日本という場所で問われている。
『北京的西瓜』P.s.
なによりもベンガルがよかったんだな。なによりも。昔もそう思ったけれど、それは永遠に思えるこの作品だと思える。
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