『母べえ』
檀れいですら眼中に入らなくさせるとは、吉永小百合の美しさ、向かうところ敵なしである。彼女の壮年になってからもの美しさ、いつも驚かされてきた。きっと毎日、風呂上りには左手を腰に当て、ドモホルンリンクルをゴク飲みしているのではないか、といった疑惑さえもってしまうのである。しかしながら、今回のサユリ、役柄に合わせて痩せたのがあるからだろうか、年齢相応の目元を表していたように見える。彼女が肉体化する母べえはたぶん30歳代、今回はサユリとキャラのギャップを幾分か感じてしまう。舞台とは違ってクロースショットもある映画、形象をもしっかりと捉え表す。しかしながら、我々が視て聴き感じるものそれは、決して醜聞とはならない。髪をしっかりと黒く染め、眉毛も黒くやや太く、サユリのその形象、役者根性を直に表さんとする。市川崑時代よりも映画女優としての極みをちょくに感じさせるものと相成り、観衆に現前する。映画女優吉永小百合の凄みをこの作品から、とても感じてしまうのである。サユリは母べえを通じて、役者を体現する。
とは言え、私には山田洋次が表さんとする母べえ像がよく捉えられなかったのでもある。終盤に言われるように、もはや日本人が忘れた女性像や母性像だからなのだろうか。不在の父べえやユーモアある浅野忠信の喪失の方に関心がいってしまい、主人公像を直に観ていきながらもそれを捉えること忘れられがちになってしまった。それとも、もう一度観たら分かるのだろうか。サクラとも共通する大和撫子な良心が表されていたのだろうか。サユリの映画女優ぶりの凄まじさに関心がいってしまい、母べえ像が捉えられなかった。されど、ラストの主人公の最後の言葉とギリシャ悲劇風の音楽に、これはシーシュポスなのだと、よく分からないままに、感動が込み上げてきた。
これから起こる可能性大な思想弾圧を先駆けて描いていたり、反戦というメッセージも表されたりするが、これはなによりもヒトというシーシュポスを描いた作品なのだと思う。ラストの言葉と音楽がそのことアピールする。山田は常に変わらず人を描くことに専念する。
作品を通じて、シーシュポスが表されるとしても、或いはそれだからこそ、人情味が帯びている。山田洋次のテクストは葬式のシーンも市井感あるユーモアを交えて表すように、ドン引きの悲劇は表すことはなく、もちろんトラジコメディにも風刺風ブラックコメディすることもなく、人間臭さをフル回転させる。明るさがあり、そしてそれとともに哀愁が表される。普通の人情劇でありながらも、これは小津とも渋谷実とも斎藤寅次郎とも違い、山田洋次の個性を仕上げている。吉永小百合の品格が山田の庶民性と溶け合い、彼のテクストのなかにおいて、また違ったテイストが育まれたという印象を持たせてくれる。
P.S.
一緒に観ていた母はこの作品の終了後、深くなにか考えていたようである。いまひとつ母べえ像を掴めなかった私としては、女性の方がこの作品の主人公像になにか感銘めいたものを感じるのではないかと思うのである。この作品やかつて観た『女ざかり』、或いは『青い山脈』、或いは日活を出た後の作品を思い出せば、吉永小百合は理性としての女性性が表される作品を、仕事を選ぶ基準としているのではないか、と思えてくる。彼女は女であることを、スクリーンの世界においても、それを生業にしている実生活においても、探究し続けているのではないか、とそう思うのである。
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