76年12月2日、大阪府立体育会館で猪木はイワン・コロフの挑戦を受けてNWFヘビー級王座の防衛戦を行っています。
試合は前半は猪木がリバース・インディアン・デスロック、弓矢固めとコロフにグラウンドで揺さぶりをかけ、弧は低かったもののダブルアーム・スープレックスで投げることに成功しています。
しかし、中盤から体力に優るコロフがじわじわと盛り返し、ベアハッグで猪木の動きを止め、猪木をアルゼンチン・バックブリーカーに担ぎ上げました。コロフが猪木を担いだ際に猪木の足がレフェリーのミスター高橋にぶつかり、高橋はダウン。
完全に猪木はコロフの背中で動かなくなりました。そこへ、コロフの勝利を確信したセコンドのパット・パターソンがリングに上がり、コロフの肩を叩いて「お前の勝ちだ」とばかり祝福。
猪木がギブアップしたと誤解したコロフは手を上げて勝利をアピールしました。ですが、レフェリーが見ていないので明らかにノーカウントです。
そこへ高橋レフェリーが蘇生し試合続行を命じました。勝ったと思ったコロフは物凄い形相で高橋にアピールしたものの勝ちは認められず。
試合再開。今度はコロフは猪木をカナディアン・バックブリーカーに担ぎ上げましたが猪木はコロフの肩の上から滑り降りて両腕を決めると倒れ込むような逆さ押さえ込み。
クイックでカウント3が数えられ22分36秒、猪木が九死に「一勝」の大逆転勝利で6度目の防衛に成功致しましたが内容では完敗で、1週間後のウィリエム・ルスカ戦は果たして大丈夫かという懸念を大きく残した一戦でした。
78年7月24日、広島県立体育館での猪木とペドロ・モラレスとの一戦が唯一「テレビ収録されたが放送されなかったNWF戦」としてシリーズ中にヘイスタック・カルホーンのフライング・ソーセージ(フライング・ボディプレスだがカルホーンなので敢えてこの表記)を背中に食らって背骨を痛めていた猪木が一方的に攻め込まれての逆転勝ち(この時も決まり手は逆さ押さえ込み)で、
「猪木に全然いいところがなかったからテレ朝が放送を見送った」、「猪木が一方的にやられっ放しだった為新間がテレ朝に放送自粛をお願いした」
などの説が根強く生きていますが、広島のモラレス戦は見ていないですがおそらくこの日のコロフとの試合と大差なし、と思われます。
12月7日、岡山武道館では第3回となる若手の登竜門、カール・ゴッチ杯の決勝が行われ、キャリア15年のベテラン、魁勝司(北沢幹之)が木村たかし(健悟)を降し優勝。
第1回は藤波辰巳(辰爾)、第2回は藤原喜明が優勝していますが猪木は「魁が勝つようではダメだ若手はもっと奮起しろ!」と激怒しました。
12月8日横浜文化体育館では坂口、ストロング小林組が共にタッグの名手として知られるパターソン、ラリー・ヘニング組を2-1で破り北米タッグ王座を防衛。
勝った坂口、S小林組はこの年は北米、アジアのタッグ二冠王者に君臨、試合後「シングルでは難しいからタッグで日本選手権をやってみたい」とアピールしました。
全日本プロレスのインターナショナル・タッグ王者チームの馬場、鶴田組、国際プロレスのIWA世界タッグ王者チームのグレート草津、マイティ井上組に出場を呼び掛けましたが、おそらく会社側に言わされただけだったでしょう。
プロレス界発展の為に尽力されてきた東京スポーツ新聞社の井上博社長が胃癌の為に12月5日、入院先の聖路加病院にて死去、53歳の若さでした。
井上社長は猪木vsS小林戦、猪木vsモハメド・アリ戦の実現に社を挙げて尽力、前年暮れには力道山13回忌追善興行の参加の可否をめぐって確執が生じた百田敬子力道山未亡人と猪木の調停役を勤めています。
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