『危険なプロット』
こういうのをミイラ取りがミイラになるというのだろうか。『夜の果てへの旅』で、このオタンコナスとばかりにダンナの頭を小突くところはやはり笑えるのであろう。コメディフランセーズである。悲哀がある。相手はオッサンだけれど、『個人教授』のように二人して堕ちる姿に、暖かみある中産階級のショッツにインサートされる青みがかった映像のクロードの現実に、年上の女性との別れに。クロードはジェルマンのなかでダミアンになるのではなく、彼のなかにおいても、やはり等身大の青年のままとして存在する。
現実がフィクション/ノンフィクションより勝っていたのでは勿論なく、エゴがミメーシスに勝るのであり、ジェルマンが文学に価値を見出せなくなるのはそれだからである。
覗き見はシネマの根源的な欲望、それ欲望の源のことであり、それはエクスプレッションなりプレゼンテーションなりに対して相反するものではなく、リュミエル ヴァーサス メリエスとなるのでもなく、誰しもの頭のなかは、ある対象を見て聞くとき、想像の産物として現前してしまう。切り取りのなかでそうなるのである。冒頭の学生アルバム、そしてラストの建物それぞれの窓に表わされるものだけがそのことをいうのではなく、プロセスの断片、そのグリッドがプロセスを集積するのであり、それは全くにして意識と同様のものである。
どこからどこまでがホントでどこが虚像的なるものかは、オゾンには彼がいつも表わすように、そんなの関係なく、寧ろ、虚実の境界線が消失することにより実直なるこの世界があること語らしおん。
ログインしてコメントを確認・投稿する