★ 『ママと娼婦』の続き1
失われたという以前に、愛はそこにある。巴里がそこにあるのである。音は三次元の広がりを表わすだけではなく、市井感を届ける。音がある。レコード、電話から洩れる声、ラジオ。人々の声。映像にはそれらが浮かび上がる。街頭のノイズ、路地と人々、その雰囲気であるそのもの、即ち、都市のあるがままを届ける。
ヴェロニカは銀幕であり、ガルボであり、ヴァンプである。彼女はシネマとして存在している。彼女には如何なる表象性はない。彼女が飲むウィスキーコークには、ゴダールが表わすようなアメリカの侵犯が表わされることはない。それと同じように、マリーが聴くサイケを通して、ディートリッヒやクラシックを愛聴するアレクサンドルに何かが表わされているわけでもない。あるとすれば、その人物たちそれぞれの個性だけ、それらが表わされている。
ピエールレオに昔気質の巴里人が表わされる。変わらぬもの。それはゴダールにおいても、トリュフォーにおいても同じなのであり、そのロマンティシズムには狂気の名をもつイノセンス、或いは狂気そのものが内在されている。
(途中休憩)
★ 『ママと娼婦』の続き2
上映時間2時間を過ぎた頃のカフェのシークエンスにおける、アレクサンドルとヴェロニカのクロースショット、その顔が語る真実は、カールドライヤーに在る厳格な輝きを表わしている。あるがままに表わされるものには、そのシアトリカルな部分- アレクサンドルの台詞や所作など -も含め、シネマが真実を届けることを認識させる。ふたりは彼女の部屋に招かれる。暗くも何か親密さも感じさせる廊下を進む。ヴェロニカの部屋は白く崇高に表わされる。かくも情報社会すぎる世間体から離れ、神聖なる場所であるかのように表わされる。白く神聖な空間は、我々が皆、娼婦であることを知らしめる。されど、救済はなく、そこには罪人もいない。オーディエンスは雰囲気に包み込まれるだけである。厳格な、その空間を感じるとき、我々は錯覚するほどの、雰囲気とともに生きていることを知る。すでに認識しているのだ。シネマはあるがままを届ける。愛という欲望は崇高であり、如何なる場所にも普遍性をもって在るものである。雰囲気をあるがままに視て聴き感じる。
(途中休憩)
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